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eskky28

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男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
外宮はシラギ神崇拝教が作った見張り所
やっと最終回(本の紹介)です。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。

現在の出雲大社とは関係ありません。


二一代雄略天皇の御代に、ついに見つけられる
「八咫鏡」は伊勢のどこかにあるのは分かっていたので、
シラギ神崇拝教はやっきになって探していたのです。
時に「八咫鏡」をお守りする皇女はタクハタ姫でした。
姫は「八咫鏡」を抱いてシラギ神崇拝教から逃げていました。

五十鈴川の上流まで逃げた時に、これ以上逃げ切れないと悟った姫は
誰も来ないうちに「八咫鏡」を地中に埋めて、力の限り方向を変えて走りました。
そこまできて姫は侍女が追い付いてくるのを待ちました。
そして追いついた侍女に「私はここで自害しますから、あなたは早くここを去って
逃れて後で「八咫鏡」を掘り出し次の斎宮様に必ずお渡しして下さい」と
埋めた場所を教えました。

姫は侍女が無事逃げるのを見届けて、最後にもう一度天照大神と父・天皇に
お詫びをし、「八咫鏡」の無事を神にお祈りをして、父から伊勢へ出発する時に
賜った剣を出して、胸を一突きにしてきれいな最期をとげられたのです。

ところが『日本書記』にはあろうことか、タクハタ姫は子供を孕んだかのごとくに書き、
首を吊って死んだと最大の侮辱を浴びせて書いています。
出雲のシラギ神崇拝教のこの下品さには、開いた口がふさがりません。

蘇民将来の印
伊勢市の古い町並は民家が出雲の社と同じ切妻建築様式で玄関が妻入りに
なっています。出雲・シラギ神崇拝教は執拗に民家に隠されていないか調べに
来るために、伊勢の住民は出雲の社と同じ妻入りにして「私は出雲・シラギ神崇拝教です。
ですからこの家には八咫鏡はありません」と表明したのだと思います。

また伊勢志摩の多くの家で蘇民将来子孫家門という文字を書いた札を注連縄につけて
玄関に飾っています。しかも注連縄は正月のあいだ飾るのがふつうですが、
一年中飾っているのです。

蘇民将来の説話が各地に残っております。
最も古いとされるのが備後風土記によるもので、昔、武塔神が求婚旅行の途中宿を求め
ました。裕福な弟の将来はそれを拒みました。貧しい兄の蘇民将来は一夜の宿を提供しました。
後に再びそこを通った武塔神は兄の蘇民将来とその子らの腰に茅の輪をつけさせ、
弟の将来たちは宿を貸さなかったという理由で皆殺しにしてしまったという話です。
茅の輪をつけている人は助かったのです。

武塔神とはスサノオの神なりとありますから出雲であることは確かです。
後にスサノオに変えたのでイソタケルを奉じたシラギ神崇拝教であったのです。

この蘇民とはまさに「ソの民」のことです。
今では忘れられていますが、ソ・新羅の民を、将来とは招来ではなかったのか、
喜んで招く、ということではなかったのかと筆者は思います。

蘇民将来の御札や茅の輪などは、ソ民つまりソから来た人たちやシラギ神崇拝教を
私の家では快く思っていますよ、ということを表明する印でなかったかと思います。
拒否して蘇民将来の印を掲げない家はシラギ神崇拝教に皆殺しにあうような迫害を
受けたことを物語っているのです。

天孫が大勢住んでいた伊勢に、大勢のソ民を移住させ勢力をつけたシラギ神崇拝教は
蘇民将来の印が掲げて有るか無いかを徹底させて「八咫鏡」をしらみ潰しに探したのです。
そしてついに二一代雄略天皇のの時に見つけられてしまったのが、タクハタ皇女の
事件であったと思われます。


シラギ神崇拝教の拠点が外宮に  しかも先祭
あわやのところで「八咫鏡」を守り抜きましたが、出雲・シラギ神崇拝教は見張り所を作って、
天孫を監視したと思われます。そのかつての拠点・見張り所であり伊勢のシラギ神崇拝教の
本拠地は先にはイソタケルを祀る社であり、後には豊受大神ことオオクニヌシを祀る
社であり、何とまあ驚くなかれ、それが外宮になっていると推定されます。

飛騨から行った人々もあまりに出雲がしつこくいじめるので家を妻入りにし、
蘇民将来の印を玄関に掲げて「出雲・シラギ神崇拝教」を表明して、表向き従ったふりをして
命からがら難をのがれたのです。しかし心は天照大神から絶対に離れることはなかったのです。

その意味が長い年月が経つうちに忘れ去られて、妻入りや玄関に蘇民将来の御札を付けた
注連縄を飾る習慣だけが今に残っていると思われます。


伊勢で「八咫鏡」を守る天孫たちをいじめた元凶が今では外宮なのですから驚きです。
その外宮があろうことか外宮先祭といって、内宮より優先されて先に行われるのです。
このような事が今尚行われているのです。

余談ですが、皇太子殿下が参拝されたときも外宮を先に参拝され、その後に内宮に
お参り参拝されたのです。
御自らの御先祖の天照大神を参拝される前に、内宮をいじめた外宮に挨拶に
行かれるとは、昔出雲に抑えられていた頃の習慣がいまだに続いているのは誠に残念の極みです。


今まで考えてもみなかったのですが、何故、天照大神を祀る神宮が伊勢にあるのか?です。
本来、天照大神は天皇のお住まいの大和の一等地に盛大にお祀りされなければならないのです。
今でこそ伊勢ですが、あの当時、なぜあんなに辺鄙な片田舎に神宮があるのか?
考えてみれば不思議です。
不思議と思わずに今日まできてしまったのです。
天皇のおわします都に祀ることができなかったのです。明治になるまで天皇が参拝できなかったのです。
それには誰も知らない、恐ろしい歴史が隠されていたのです。

我々日本民族が絶対に忘れてはならないことは、
「現在の伊勢神宮があるのは、天照大神はを古神道を命をかけて、
命を捨てて守り抜いて下さった方々があったからである」ということをです。
そのお陰で「八咫鏡」が、伊勢神宮が護られ続けてきたということをです。

そのお陰で、今、伊勢神宮を参拝させて頂くことができるということをです。
ただただ感謝です。

以上、長々と続きましたが私が最も衝撃を受けた本『暴かれた古代史』でした。
私が怖かった話は二つ、出雲の古神事の話、外宮の話、でした。
高天原は飛騨であったことなど、にわかには信じられないですが、本を読んでいると
心の中にモヤモヤもありますが、妙に納得させられました。
信じるか信じないかはあなた次第です!の世界ですね。

まだ飛騨も出雲も参拝させて頂いたことがないので、近いうちに参拝させて頂きたいです。

そういえばイザナギノミコトとイザナミノミコトを祀られてる多賀大社(滋賀県)に
参拝させて頂いたときにも、目の前にあるお土産屋さんや家などにも
蘇民将来のお札か注連縄を見かけたことがありました。
同様なことがあったのでしょうか・・・。


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