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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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ホヒは殺された? |
前回からの続きです。
今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。
著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。 それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。
現在の出雲大社とは関係ありません。
実際に出雲に残る意味不明の神事が解説されています。
オオクニヌシの子 逆恨み オオクニヌシには妻と妾が二十数名と記録され一八一人もの子供がいるのです。 孫たちは数えきれないほどいたのです。 しかしオオクニヌシにはまだ他に隠し子がいたのです。それは新羅へ行ったときに 向こうの女に産ませた子供で、国奉還の談判の時にはまだ出雲にはいなかったのです。 オオクニヌシが幽閉された後に出雲に来たのですが、新羅で生まれた子供については 『記紀』や出雲でもひた隠しにしています。
大勢の子供や孫たちは、非はオオクニヌシとコトシロヌシにあり、なぜ国を奉還せねば ならなくなったのかは分かっていたのです。また少し戦をして、とても勝てる相手では なかったこともわかっていたのです。だから最初はおとなしくホヒに従っていたのです。
ところが後に新羅から来た子供たちが不服を言い出したのです。そして日本の兄弟に 焚き付けだしたのです。 そして日がたつにつれて国を奉還した事を残念がりだし、幽閉を無念がりだしたのです。
飛騨の寛大な処置に感謝することも忘れ、残念無念に思い、飛騨から派遣されたホヒの 下にいることが耐えられず、出雲を自分達の統治に取り戻したいと思うようになっていきました。 大勢の子や孫たちはオオクニヌシとコトシロヌシが後悔し反省している心を知らずに、 躍起になって残念がりだしたと思われます。
そして時期をみていました。
オオクニヌシの葬式がその時 オオクニヌシは飛騨王朝が造った床の高い幽閉所の中に閉じ込められて すっかり観念していました。 出雲大社は普通の神社のように入口(玄関)は中央ではなく、単なる通用口 なので右寄りで十分なのです。床が高いのは逃げることができないためです。 入口から一番遠い奥(御神座)に閉じ込められて(鎮座)おり、 常時五人の役人(お客神)に見張られていたのです。
オオクニヌシは本来祭神でなく、幽閉の身なのです。 だから参拝者の方に向かってなくていいのです。
幽閉されてから十数年たったのでしょうか、オオクニヌシは幽閉所で静かに この世を去りました。 子供たちに知らされて葬式もこっそりとひっそりと滞りなく済みました。 そして皆で会食をしていた時のことです。 ホヒが箸をとり茶碗をとって食べようとすると、なんと茶碗に石ころが入って いるではありませんか。(神事の「歯固めの儀式」)。 驚いたホヒは「これは一体どういうことか?」「ホヒ様の長寿を祈る出雲の しきたりです」と子供たちは美味しそうに食べたり飲んだりしているのです。
この時から、それまで従順に従っていた子供たちが急変しました。
大勢の子供たちがボロクソにホヒを罵り悪態をつきはじめました。 大勢の子供たちに取り囲まれて、剣さえチラつかせているのです。
ホヒは言われるままに、出雲を統治したこと、オオクニヌシを幽閉したことを オオクニヌシの子供一人一人に土下座して詫びさせられました。
出雲の政権を返すことを誓わされ、何度も立ったり座ったりして頭を下げさせ られて謝らせられました。(神事の「百番の舞」)。
オオクニヌシの子供たちに吊るしあげられたのです。
ホヒは殺された? さんざん頭を下げて詫びさせられ、統治権を剥奪された挙句ホヒは殺されたのです。
『出雲大社』に次のような驚くべきことが書かれています。 「国造が死去すると後継者はただちに他所で神事を行う、終わった知らせが入ると、 亡くなった前国造は、赤い牛に乗せて運び出し、杵築の東南の池に水葬すること になっていた」(出雲大社では宮司のことを国造といいます)
さらに江戸時代に書かれたものに「国造の父が死しても、その族は泣く者なく、 子は父の弔いに会うことなく、喪に服することもない」と書かれています。
ホヒの生きた時代以前から出雲に水葬の習慣があったのなら問題ありませんが、 「この水葬はホヒから始まり、代々の国造にだけ行われてきた」というのです。
これはホヒは殺されてなおかつ遺体の姿を遺族にも絶対に見せることが出来ない 状態であったから、泥池に捨てられたのです。 遺族はホヒの死を確認しないまま、死んだことを知らされたのです。
埋葬は時間がかかり、土を掘り返されて遺体を見られたら、ホヒを殺したことが 飛騨に知られて大変なことになってしまいます。
ホヒの亡骸を遺族にも誰にも絶対に見せることができないとんでもない 理由があったのです。 これについては次回にします。
絶対にバレずに早く隠すには、中が見えない泥池に捨てて沈めるのが、 最も手っ取り早い方法だったのです。慌てて始末したのです。 それを水葬とはうまく言ったものです。
本来亡骸は数人の最も近い親族が運ぶのですが、「遺骸を牛の背に乗せて運ぶ」 のです。これは大罪人に対してすることです。 オオクニヌシの子供たちにとって、ホヒは国を乗っ取った大罪人だったのです。
ホヒは出雲の統治者です。それ相応の厳粛な葬式があってしかるべきなのです。 遺族や友人は遺骸と最後の別れも出来ず、遺骸や遺骨のない葬式をしたのです。 泣くことすらできなかったと思われます。
江戸時代の記録に「出雲国造家では父死して跡継ぎが国造になっても、 その族はこのために泣く者なく、いずれも新国造の襲職を賀す、子は父に会すること なく服忌がない」として、その不審の思いを記している。(『出雲大社』)とあります。
『出雲大社』には「墓がないのは国造は永生であるから」と書かれています。
日本で唯一の水葬は「国造は永生であるから」というのです。 あまりにも「うまい説明」に日本中がだまされて、歴史の真実を 見落としてきたと著者は思うのです。
と書かれています。
ではまた次回にいたします。
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