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eskky28

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男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
続 日本のル-ツ?のお話(あくまで一説)
前回の続きです。
『飛騨の口碑』が書かれたの『日本のル-ツ飛騨』からの紹介です。

【神武天皇の東征】

出雲からタギリヒメが逃げ帰って出雲と飛騨の関係が危なくなった頃、
筑紫(九州)では外国の人たちが大勢上がって来ていて、三つのグル-プで
争い逃げ帰って、元から住んでいる人たちから物を奪ったり、殺したり
して悪さをしていました。


このまま月日がたてば勝ち残った集団が子孫をドンドンふやして、東へ攻めて
こられてからは手遅れになるので、ヒルメムチ(天照大神)の孫のニニギノミコトを総大将にして
飛騨から降りてゆき、鈴鹿からサルタヒコノミコトが船を用意して筑紫平定に向かう
ことにしたのです。


これがいわゆる『天孫降臨』のことです。


その少し前、飛騨では寒波が訪れていて、飛騨中大雪が降るようになっていました。
その上外国人が日本に入ってきて悪さをするようになっていたので、飛騨では
山奥すぎるということで都を大和に移すことに決まりました。


飛騨中の人々が高山の安河原に集まり、やまのふもと(大和)に都を移すことを決め、
出来るだけ多くの飛騨の男女が筑紫平定に行き、平定後飛騨に帰らず、すでに準備を
進めている大和に入って都を開くことが決定されたのです。


ヒルメムチノミコト(天照大神)の息子や孫が近畿へ降りて開拓していきます。
日本の古代は末子相続制だったので、直系の末子以外の人々は、
大和に都が開けるよう近畿一帯を開拓するために、
ニニギノミコトが筑紫へ降臨されるより
一足早く山の麓(飛騨からみて)に降りられたのです。


ヒルメムチノミコト(天照大神)の息子のアマツヒコネノミコトは一族を
引き連れて滋賀県の彦根に降り開拓され、祖父母のイザナギノミコト、
イザナミノミコトを祀り、のちに多賀大社となって発展し彦根という
地名になりました。


アマツヒコネノミコトはさらにそこを身内に任せて、三重県の多度も開拓し
そこで崩ぜられました。そこが多度大社になったのでしょう。


アマツヒコネノミコトの子のオオコウチノミコトやその子孫は、各地を開拓され、
いたるところに河内、大河内の地名をとどめています。


オオコウチノミコトの兄弟は多数おり、ヌカダノミコトは河内の大和へ、
イバラキノミコトは大阪の茨木へ、タナカノアタエノミコトは大和の田中郷へ、
ヤマシロノミコトは京都の山城へ、ウマクダノミコトは上総国の望陀郡へ、
ミチノシキヘノミコトは磐城国の楢葉町へ、スオウノミコトは周防へ、
アムチノミコトは大和の山辺郡庵知へ、タケイチノミコトは高市県(たけいちのあがた)へ、
ガモウイナキノミコトは近江の蒲生郡へ、サキクサベノミコトは三枝へと
父のアマツヒコネノミコトの命令によりそれぞれの地に赴き土地を開拓されたのです。


もう少し前に鈴鹿の椿大神社も飛騨の命を受けヤマモトタカヤマツチノキミミコトが
飛騨から降りて鈴鹿を開拓しました。
神社の宮司は代々山本家です。



筑紫が平定されればスメラミコト(皇統命)が大和に入って都を開くことが決まっており、
すべての分家の人々は総本家に従って団結していく道徳が定まっていたのです。


ニニギノミコトの兄のニギハヤヒノミコトは、ニニギノミコトが筑紫へ降りられるに
先だって、河内の川上のいかるがのたけの麓に行かれました。


降りられるときにヒルメムチノミコト(天照大神)からニニギノミコトと全く同じ
天羽羽矢(アマノハバヤ)とアマノカチユキなどの十種の神器を授けられた
のです。

これは万一筑紫平定が長くなって子や孫の代になっても、互いにこの神器を
示しあうことで先祖が兄弟であることの証拠品だったのです。


実際ニニギノミコトの孫のサヌノミコト(神武天皇)だったので、大和に来られて
この十種の神器を示しあうことで合戦が中止されたのですから。


筑紫は広く、志半ばでニニギノミコトは亡くなり、息子のウガヤフキアエズノミコトが
後を継ぎほぼ平定し、その息子のサヌノミコト(神武天皇)に飛騨との約束を
果たす為、大和へ帰り都を開きなさい、急いで分家の待つ大和へ向かいなさいと
命じました。


『日本書記』には神武天皇の兄イツセノミコトを殺したナガスネヒコを切ったと記されて
いますが、『古事記』では触れていません。
「飛騨の口碑」ではナガスネヒコはニギハヤヒノミコトの妻の兄に当たるので、
表向きは切ったことにして東北へ逃がしたと伝えています。


『日本書記』と「飛騨の口碑」のどちらが正しいか調査したところ、
ナガスネヒコは家来やその家族を連れて青森の十三湖に入りアラハバキ王国を
建てたと地元の口碑に残っていました。



サヌニミコトは都を開き、この朗報は直ちに飛騨に伝えられました。
すでに亡くなって位山の先祖と共に葬られておられるヒルメムチ(天照大神)の墓前
に報告され、位山の一位の木で作られた位板がサヌノミコト(神武天皇)に授けられました。
(これ以後天皇の即位式には位山の位板が下がり後に笏木と変わりましたが、今なお
この伝統は続いています)



こうして神武天皇が大和の橿原で即位されたのです。


大和に都が開かれると、飛騨の若い男女が大勢大和へ行き、
神武天皇を守り、助けました。

飛騨から行った人々が住んだところが橿原神宮の隣に飛騨町、上飛騨町
として残っています。

鈴鹿の山本一族がやはり橿原を守り山本町が今も橿原神宮の隣にあります。


長くなったので続きはまたにします。
話はキレイにつながっていると思います。
怖い話はもう少し先になりそうです。

ご訪問して頂きありがとうございました。

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