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eskky28

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男、46才、A型
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日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
伊雑宮の別のお話
伊雑宮では次のようなお話もあります。

事実かどうかは分かりませんが,その方の推論です。
ただ色々詳しく調べているよう思えます。
私は興味深々で、凄く驚きの連続でした。


『八上  白兎神社Ⅱと全国神話伝承』というブログに書いてありました。
以下、紹介致します。

「 秦氏とニギハヤヒ・伊雑宮・籠神社 私論」  古代史
 
 まだ試論段階ではありますが、公開いたします。

 秦氏と関わる先代旧事本紀、これにはいくつかの種類がありますが、
アカデミズムでは10巻本が許容され、72巻の先代旧事本紀大成経は、
江戸時代に物議をかもしたことから、偽書のレッテルが貼られているようです。
 秦氏は、日本の神社、神道に大きな影響を及ぼし、さまざまな改変を加えてきたようです。
その内容がどれほどのものであったかはよくわかっていません。
 筆者はこの間、秦氏とも関連するニギハヤヒをめぐって、あらためて見直しをしている最中ではあります。
 そもそも、(ニニキネノ命の孫にあたる)ニギハヤヒは、ホツマによれば、
ニニキネノミコトと木花咲耶姫の御子であるホノアカリムメヒトとタマネ姫の御子で、
世継ぎができなかった天火明命(ニニキネノ命の兄)のもとへ養子となった、とあります。
http://gejirin.com/src/Ni/nigihayahi.html 
 ところが、この火明命とニギハヤヒを同一視している学者や好事家が少なからずいて、
さらにたちの悪いことにニギハヤヒと大物主命、大国主命が同一の神であるとか、
天照大神と同一であるとか、勝手な思い込みをまき散らしている方もいて、巷間に相当な混乱を招いています。
 物部系の書といわれる先代旧事本紀ですが、秦氏の監修のもとに完成したこの書物は、
記紀よりもいっそう警戒が必要な代物といえそうです。
 アカデミズムでは72巻本は偽書とされていますが、逆にこの72巻本の内容から30巻本、
そしてアカデミズムも容認する10巻本が出来上がったとみる向きもあります。
 この72巻本は、江戸時代、伊雑宮の神庫から発見されたもので、特にその内容に、
内宮と外宮の祭神に関して、と神武以降仁徳天皇までの8名の皇統の身体的特徴について
荒唐無稽な記述があること等から、即座に幕府によって取り締まられたわけです。
 ウィキペディアにはこうあります。
>大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、伊雑宮が日神を祀る社であり
内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説<


 伊雑宮、といえば、筆者も以前、佐美長神社の件で記した通り、平安時代ごろには祭神がすり替えられ、
元は、ホツマにあるように天照大神と瀬織津姫の2柱が祀られていなくてはならないものを、
1柱だけの祭祀となり、しかも祭神名も全く別の神名に変えられていた、というところです。
 http://white.ap.teacup.com/hakuto/827.html
 ですから、上記の、伊雑宮の神職が主張していた内容も、すでに改変を加えられた後の影響も
受けたものと考えてよいでしょう。
 ホツマによれば、伊雑宮は天照大神と瀬織津姫が長年お住まいとされ、
そこで、全国の統治をなさったところですから、たいへん重要な場所であることは間違いありません。
その意味で、伊雑宮神職の主張は外れていません。 
 ホツマでは伊勢神宮内宮も、天照大神と瀬織津姫が晩年にお住まいになったところ、
と記されています。ですから伊雑宮も内宮も本来はどちらも同じ神が祀られているのです。
 外宮についてはその創始年代が若干不明なところもありますが、
雄略22年秋には豊受大神の御霊代が丹後の久次嶽、比沼麻奈為神社より遷座したことはほぼ間違いありません。 
もっともそれ以前より、外宮敷地の多賀宮において、宇宙根源神を祭祀していた可能性は十分あるもの、
と筆者は想像しています。

 ですから、上記の先代旧事本紀大成経72巻本のような、伊勢内宮・外宮に対する評価・位置づけは
奇妙としか言いようがないのです。
 
 先代旧事本紀の成立に関しても事実上、無理矢理に全国の有名氏族から
それぞれ固有の神代文字で記された門外不出の史書・古文書を接収した
(場合によっては奪い取ったと思われる)のです。ヲシテ文献(ホツマ・ミカサフミ)と
思われる文書を四国の阿波宮=金刀比羅宮と東大阪市の枚岡宮から接収したことも記されています。
 
 秦氏は、仲哀天皇崩御後、神功皇后が朝鮮半島との外交交渉=三韓出兵を果たした直後より、
日本の祭政に大きく関与しはじめたものと思われます。
 仲哀天皇が崩御されて後、70年間、日本に天皇が存在しない、誰も即位できない、
という大空位時代を経て、応神天皇が即位し、応神天皇政権は外来思想導入に積極的になりますが、
この背景には間違いなく秦氏の影響があったのではないでしょうか。
そして秦氏は神功皇后と応神天皇を極度に祭り上げます。それが全国各地に残る神功皇后伝説です。
中には史実に沿ったものもあるでしょうが、それにしても六甲山周辺の神功皇后伝承とは
、瀬織津姫の伝承地にぶつけて掻き消していったと思われる形跡があります。
応神天皇は八幡大神として他の人皇とは比べ物にならないくらいのはるかに高い扱いを受けて
崇拝されるようになり、全国に数多くの八幡神社が創建されました。
応神天皇陵は体積で日本一、続く仁徳天皇陵は面積で日本一、
これらの巨大古墳造営は従来の土師氏ではなく、秦氏が大きくからんでいます。
 秦氏と何らかの政治的妥協をせざるを得なかった神功皇后一行が大和へ帰還される際に、
阪神間でそれを阻む動きがありました。
仲哀天皇と大中姫の御子である麤坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)兄弟が、
おそらく外来勢力の影響下にある神功皇后と応神勢力に対抗しようとしますが、
(この辺りは記紀ではあいまいな表現で真相はよく分からないものの)事実上兄弟は鎮圧されてしまいました。
 時代的には200年ごろ、3世紀のことです。
 それから300年以上も経た時代に、聖徳太子が麤坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)兄弟を
弔う意図で、二人が命を落とした宝塚市に中山寺他数ヶ寺を創建しました。
 聖徳太子の実母、間人(はしうど)皇后は蘇我氏であり、秦氏系です。
(間人皇后の母である蘇我小姉君が蘇我馬子の妹にあたります。)
 聖徳太子は、皇室の血を引くと同時に、秦氏の血を引いています。
ですから、同じ秦氏系の蘇我馬子や秦河勝と共同歩調を取っているわけですし、秦氏の拠点、
京都太秦の広隆寺や同じく秦氏の拠点である播磨、四国とも縁が深いのです。
 このような流れから見れば、聖徳太子が、この麤坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)兄弟を
厚く弔う意味も判明してきます。
 秦氏は、天皇家に成り代わって、自分たち一族の代表を皇統にしようとしたのではないでしょうか。
 そのために、皇統の系列の中で、最もつけ入りやすい人物を自らの始祖として偽装しようとして、
そのターゲットとなったのが、瓊瓊杵尊の兄である、火明命であり、
また、天照大神と名前が類似した天照国照ニギハヤヒノ命であったと思われます。
そして、自分たち氏族を物部氏である、とも偽ったのではないでしょうか。
(物部氏については不明な点が多く、要調査です。)
 それを文書として、偽装しようとしたのが先代旧事本紀で、その中でニギハヤヒを始祖としたわけです。
 その動きと連動させて、彼らの一大拠点であった四国においても
つじつまを合わせるべく秦氏の流れであるはずの河野氏、越智氏の系図において、
始祖を徐福とするのと並んで、ニギハヤヒとしたものと思われます。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27996987.html
 
 伊雑宮は早くから秦氏が奪い取って手を加えたと思われます。
佐美長神社主祭神は大歳神となっています。大歳神は秦氏の拠点、播磨に異常に多く祀られています。
そのわきに、極端に小さな祠が4つありますが、この上から見下ろすようにして
拝さなくてはならない佐美長御前神社が、元は伊雑宮に天照大神と共に並祭されていた瀬織津姫と思われます。
本当にひどい話です。

http://www.genbu.net/data/sima/saminaga_title.htm

 丹後半島に移ります。おそらく、間人皇后も政争から逃れるために
自分たち秦氏の拠点であった丹後半島に向かったのでしょう。
丹後の間人(たいざ)は、この間人(はしうど)皇后が退座されたことが由来の地名です。

 ここにおいても秦氏の一大拠点として、竹野神社と天橋立の籠神社が活用されたものと思われます。
籠神社主祭神は彦火明命(天火明命)です。
ホツマには、火明命は、(おそらく天津日継としてふさわしくなかったために)
世継ぎは一人もできなかった、と記されています。
ニギハヤヒノ命は天火明命の養子であり、血縁関係はありません。
ですから系図の始祖として天火明命が位置付けられていることは疑問な点です。
すでに海部氏系図については、よくよく検討すべきという意見も出ています。
  宝賀  寿男氏
 国宝「海部氏系図」への疑問                            
http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/amabe/amabe-k1.htm
 
 いずれにせよ、秦氏の拠点としてこの二つの神社は重要視されたのではないでしょうか。
それが2つの神社を結びつけるとされる両宮の「裏社紋の六芒星」であったり、
伊雑宮を鶴、籠神社を亀になぞらえてペアとみなすようにされたものと思われます。
 また伊雑宮付近には丹後半島と同じように、中国由来の神仙思想に基づく龍宮伝説も作り上げられています。
 羽衣伝承や浦嶋伝承で、豊受大神の御業績を塗りつぶそうとした手法と類似しているように思えます。

以上になります。

私にとって非常におもしろいです。
いろんな見方がありますね。

上記ででてきました『豊受大神の御霊代が丹後の久次嶽、比沼麻奈為神社より遷座した』の
「比沼麻奈為神社」も参拝させて頂きましたので、後日書かせて頂きます。

参拝の前日に籠神社の他に参拝させて頂こうと、神社を調べていましたら
元伊勢内宮、元伊勢豊受大神社、が目にとまり参拝しようと決めたあとに
なにげなく、この「比沼麻奈為神社」に参拝された方の記事をみつけて
参拝させて頂くことになりました。
参拝させて頂けたご縁に感謝しております。

ご訪問頂きありがとうございました。

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