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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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瀧原宮(内宮別宮)へ参拝 |
平成二十九年 十一月三日参拝
伊勢神宮 内宮 別宮の瀧原宮へ参拝させて頂きました。
距離感を書くのを忘れていました。 私のこの日の動きです。 記憶もあいまいですので、だいたいの時間です。 駐車場はすべて無料でありました。猿田彦神社は有料で時間制でした。
二見興玉神社→外宮(二見興玉神社から車で25分) 外宮→月夜見宮(徒歩5分) 月夜見宮→猿田彦神社(月夜見宮から車で10分) 猿田彦神社→内宮(徒歩10分) 内宮→月讀宮(内宮から車で5分) 月讀宮→倭姫宮(内宮から車で10分) 倭姫宮→瀧原宮(倭姫宮から車で40分) 瀧原宮→伊雑宮(瀧原宮から車で60分) 伊雑宮→天岩戸(内宮から車で20分)(伊雑宮から神宮への帰り道にあります) 天岩戸→朝熊岳金剛證寺(内宮から車で15分)
【隠されたパワ-スポット、瀧原宮】 遥宮として崇敬され内宮外宮より歴史が古いという、 瀧原宮とその隣に建つ瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)は 隠れたというより隠されたパワ-スポットといっていい場所みたいです。
倭姫が大河の瀧原の国に氣を感じ、建てられた瀧原宮は凛とした佇まいに品格すら備わっている感じでした。 瀧原宮は内宮の雛形ともされ、〝ミニ内宮〟とも呼ばれたりしているそうです。 〝本当の伊勢はここにある〟ともいわれてきた場所だそうです。
瀧原宮は倭姫が大和国からアマテラス大神を祀るため、伊勢まで旅した最後、つまり伊勢神宮に アマテラス大神を鎮座させる直前に祀っていた社。 いわば最後の〝元伊勢〟ともいうべき場所なのです。
五十鈴川同様、清流で手を洗い、口をゆすぐ御手洗がある強力な聖地なのですが、 ここは導かれる人以外はあまり訪ねることがないそうです。 確かに参拝されていた方たちは入れ違いも含めて、8~10人だったような気がします。
遷宮ブ-ムの人混みから一種隔絶された神域なのであります。
鳥居から凄く樹齢の古い大きな木が、参道の両脇(まるで深い森の中)にあり、 そこを抜けると奥に4社の建物が見えてきます。 ここでもお詣りする順番が大切なポイントとなります。
まずは本宮の瀧原宮、その後に瀧原竝宮をお詣りしてから、3番目に 若宮神社、最後に長由介(ながゆけ)神社の順にお詣りします。
隣へ隣へとお詣りしがちなので、順番には氣をつけましょう。
以上、『神社の謎』から抜粋致しました。
【瀧原宮の鳥居】
【瀧原宮 拝殿】
【瀧原宮 御朱印】
【御祭神】 天照大御神御魂 【創建】 804年以前 【ご由緒】 内宮(天照大御神)と荒祭宮(天照大御神荒魂)の関係である。 すなわち瀧原宮は天照皇大御神の和魂(にぎみたま)、 瀧原竝宮は天照皇大御神の荒魂(あらみたま)を祀るとされる。
瀧原宮の、正確な起源はわからない。 本宮は、倭姫命が内宮よりも先に天照大御神を祀った場所という伝承がある。 『倭姫命世記』によると、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が、宮川下流の磯宮(いそのみや)より 天照坐皇大御神(天照大神)を祀る地を探すために上流へ遡ったところ、 宮川支流『大内山川』の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので、 草木を刈り新宮を建てた。だが天照皇大神の神意により、 現在の内宮のある伊勢市宇治館町に新宮(五十鈴宮)を建てたため、 天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったとされる。 神宮ではこの説を採る。 なお天照大神を過去に祀っていた場所を元伊勢と呼ぶが、別宮とされたのは瀧原宮だけである。 別宮とされた理由は不明であるが、ヤマト王権が勢力を南下させるにあたり重視した説などがある。 804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』には、 天照大神の遙宮(とおのみや)と記述されており、それ以前からあったと考えられている。 皇太神宮儀式帳では瀧原宮1院1号で、延喜太神宮式では別号とされているため、 創建当初は瀧原竝宮は瀧原宮に含まれ、804年から927年の間に独立したと考えられている。
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