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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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坐摩神社へ参拝(大阪) |
平成二十九年 九月三日参拝
坐摩神社(いかすりじんじゃ)摂津国一宮へ参拝させて頂きました。 正式な読み方は「いかすりじんじゃ」ですが、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く 地元では「ざまさん」の通称で呼ばれているそうです。
大阪市内でもビジネス街のど真ん中でビルに囲まれている場所にありました。 家からは高速道路は使わずに25分くらいで着きました。 駐車場も4,5台停めれたと思います。
神紋は「白鷺」で、写真にも撮りましたが、植木鉢にかわいい白鷺みたいな花が咲いていました。 さぎ草はラン科の多年草で、白鷺が羽を広げたような純白の花を咲かせます。
大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が迎えてくれます。
【坐摩神社 鳥居】
【坐摩神社 三ツ鳥居】
【坐摩神社 白鷺みたいな花】
【坐摩神社 御朱印】
【御祭神】 祭神は以下の5柱で、「坐摩神」と総称している。
生井神 (いくゐのかみ) - 井水の神(生命力のある井戸水の神) 福井神 (さくゐのかみ) - 井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神) 綱長井神 (つながゐのかみ) - 井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神) 波比祇神 (はひきのかみ) - 竃神(屋敷神。庭の神) 阿須波神 (はすはのかみ) - 竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神) 【創建】 神功皇后年間 【ご由緒】 当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。『万葉集』の中には、難波津から西国へ向かう防人が旅の安全を坐摩社に祈る歌がある。同社の神紋が白鷺なのも、神功皇后が坐摩の神の教えにより白鷺の多く集まる場所に坐摩神を奉遷なされたことに由来する。
創建時の社地は現在と異なり、渡辺津・窪津・大江などと呼ばれたかつての淀川河口である。旧社地は遷座後に御旅所が置かれた現在の中央区石町(こくまち)に推定され、天神橋 - 天満橋間の南、近世以降「八軒家」と呼ばれる地に概ね該当する。なお、石町には摂津国の国府も置かれており、町名は国府の転訛と言われている。平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んでこの神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。
渡辺津は窪津ともよばれ、京からの船が着く熊野古道の基点でもあった。熊野三山への参詣道沿いに立っていた「熊野九十九王子」のうち、最初の「窪津王子」はこの坐摩神社行宮の場所にあったと思われる。
所在地の現在の町名は「久太郎町四丁目渡辺」と、番地ではなく「渡辺」となっている。神社と氏子が渡辺津から移転してきたことで、江戸時代から既に「北渡辺町」「南渡辺町」という町名になっており、1930年(昭和5年)に「渡辺町」となった。
しかし、1988年(昭和63年)に旧南区・東区の統合に伴う地名変更の際、「渡辺町」は統合されて消えることとなった。そこで、渡辺姓の末裔で作る「全国渡辺会」が渡辺の名のルーツである渡辺町の消滅に対し反対運動を起こした。結局市は苦肉の策により、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すことで決着をみた。
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