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eskky28

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男、46才、A型
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日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
増上寺に参拝
女子500mスピードスケートの小平奈緒選手
【金】メダル獲得おめでとうございます。
(スピードスケート女子初の金メダル、五輪新記録タイム)

平成二十九年 一月四日参拝

ご縁があり、増上寺にお参りさせて頂きました。
前回も書いたとおり東京タワーのそばにあり、
徳川家の菩提寺である。という印象でした。

実は以前から気になっている「明治天皇すり替え説」
に関係している方のお墓があったのです。
その方のお名前は和宮内親王です。
左手首のない銅像もありました。

その前に一つ説明しておきたいことがあります。

「明治天皇すり替え説」のポイントは以下のことから「なるほど」と思うことができる。(私は)

1 なぜ尊皇である長州は、孝明天皇のいる御所を襲ったのか。
2 孝明天皇は長州を恐れ京都から二度も叩き出されたのか。
3 孝明天皇暗殺説(噂は下手人の具体名まである。岩倉具視と伊藤博文である)
4 今の天皇家は南北朝以降、ずっと北朝なのだが
明治天皇が命じて皇居前に楠木正成の像を
置いた。(北朝側からすれば反逆者)
5 後醍醐天皇を祀る吉野神宮、湊川神社(楠木正成)、藤島神社(新田義貞)など「建武の中興」
関係の皇族忠臣を祀る官弊社を十五社創建している。(北朝の憎っき敵の南朝側の神社をである)
6 帝国議会でも「南朝こそ正統」という決議がなされた。明治天皇が裁断を下された。
7 明治天皇は美子皇后のことを皇太后と呼んだ(母親のこと皇太后と呼ぶ)
自分の妻でなく先帝の妻であるということになる。

以上「幕末維新の暗号」加治将一著から抜粋

数冊しか読んでいないが、鳥羽伏見の戦いの
どさくさに御所を占拠してすり替えたのでは
ないかと考えられている。
証拠はないので想像ですけどね。

という上記ことを踏まえて。

私がつい最近知ることになったのが、
明治天皇の前の孝明天皇の妹で、
徳川家茂に嫁がされた和宮内親王であります。

あくまで噂ですが家茂も大阪で暗殺され、
孝明天皇も暗殺され、和宮内親王も暗殺されたのではないかと噂されています。

3人とも攘夷、攘夷の人達であります。

和宮内親王のことで不可解なことを挙げていきたいと思います。

50年前に増上寺移転改葬のため
和宮内親王の墓と遺体が墓地発掘調査された。

1 和宮の左手首から先の手骨は発見されなかった。
幼少のころからなかったとは考えられないとのこと。(銅像はどれも左手首がないのである。)
2 墓詩銘に伝えられるような脚気がもとでお亡くなりになられたのではなく、何か事件に巻き込まれたのかも知れないと調査団長の方が本を出版している。
3 和宮内親王の副葬品は小さなガラス板だけであった。そして死装束もほとんど全裸に近かった。
(他の将軍の正室などの棺には、生前ゆかりの品々を大量に納められている。)
ご遺体を東京に送って慌ただしく葬ったので、ゆかりの品々もなく刀で斬られた着物も入れようがなかったのではないか。
4 阿弥陀寺に安置されている和宮内親王の位牌は皇女を表す「内親王」ではなく男性皇子の
「親王」、静寛院宮でなく静寛院殿になっている。
などか挙げられます。細かいことは他にもありますがこれぐらいにしておきます。

以上「幕末 戦慄の絆」加治将一著から抜粋

すごく不可解なことが多いと思います。

【増上寺 三解脱門】


【増上寺 大殿(本殿)】


【増上寺 御朱印】

【本尊】
阿弥陀如来
【創建】
明徳4年(1393年)
【宗派】
浄土宗鎮西派
【山号】
三縁山
【御由緒】
9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。

その後、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が、実質上の開基といえる。

中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。

風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。

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