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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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當麻寺へ参拝 |
當麻寺へ参拝(令和二年三月二十一日) 奈良県葛城市當麻1263にある寺院です。
當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。 創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。 宗派は真言宗と浄土宗の並立となっている。 開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。 西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。 毎年4月14日(2019年より、明治期〜2018年までは5月14日)に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には 多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。 奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、 近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。 本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、 人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。
前回からの続きで、二上山雄岳から雌岳に向かいます。
予定 9時30分(道の駅)→14時頃(道の駅) 道の駅ふたかみ→葛木倭文座天羽雷命神社→二上山雄岳→大津皇子のお墓→葛木二上神社→ 二上山雌岳→當麻寺→十割蕎麦『薬庵』→道の駅ふたかみ
【雌岳山頂】雄岳から少し下って行くと三叉路があるのに道案内がなく迷いそうになりました。 當麻寺の方に進みたいのに反対側の大阪方面に進んでしまっては大変なことになります。 何故か迷わず皆が進む方へ私もついて行きました。すごい下りだったので間違えて戻るのも大変なので 登りの人に聞いたら雌岳方面で合っていました。
【山頂にある日時計】ここでおにぎりを食べました。
【山頂からの眺め 大阪方面】
【山頂からの眺め 奈良方面】
【太陽の道】
【鳥谷口古墳】雌岳から下ったところに古墳がありました。
【傘堂】珍しいお堂がありました。
【當麻寺 仁王門】コロナのせいなのか、ほとんど人がいませんでした。
【仁王像 開口の阿形(あぎょう)像】
【仁王像 口を結んだ吽形(うんぎょう)像】
【梵鐘】国宝。無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない。
【手水舎】
【本堂】高野山真言宗と浄土宗が並立しています。元来は学問を修める場所だったものが、やがて真言宗寺院となり、 その後浄土宗の発展に伴い、當麻寺の浄土曼荼羅が信仰の対象になりました。 その為、當麻寺にある沢山の建物の中で曼荼羅のある本堂のみが兼帯で管理され、他は宗派ごとに分かれているそうです。 他の建物の撮影はすっかり忘れていました。国宝、重要文化財が沢山ありました。
【御朱印】真言宗が担当の年は「蓮糸大曼茶羅」、浄土宗の時は「蓮糸大曼陀羅」と「ダ」の字が変わるそうです。 この御朱印は真言宗ということですね。宗胤院(そいにん)というところではお地蔵様の絵も御朱印と一緒に書いて 下さるそうです。寄ったのですが電話予約が必要とのことを並んでいる方に伺いました。
【蕎麦屋 薬庵】仁王門を出てすぐのところにあります。数量限定で無くなり次第終了みたいです。
【おしそば】十割そばを美味しく頂きました。色が変わっていたような気がしました。 日にちが立ちすぎて忘れてしまいました。
【二上山】蕎麦を食べてから二上山を拝みながら道の駅まで歩いて戻りました。一番右が雄岳、隣が雌岳です。 登りはきつくしんどかったですが、下りになってからは気分爽快でまた山に登りたくなりました。
【本尊】 当麻曼荼羅 【宗派】 真言宗、浄土宗 【山号】 二上山 【創建】 伝・推古天皇20年(612年) 【開基】 伝・麻呂古王(聖徳太子の異母弟) 【札所等】 新西国三十三箇所第11番 関西花の寺二十五霊場第21番(西南院) 仏塔古寺十八尊第8番(西南院) 大和十三仏霊場第6番(中之坊) 大和七福八宝めぐり(中之坊) 法然上人二十五霊場第9番(奥院) 西山国師遺跡霊場第14番(奥院) 神仏霊場巡拝の道第32番 【文化財】 東塔、西塔、曼荼羅堂、塑造弥勒仏坐像ほか(国宝) 金堂、乾漆四天王立像、木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財) 中之坊庭園(名勝・史跡)
【創建縁起】 当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという。 建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府太子町山田とする説がある。 以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる。
【中将姫説話】 当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」または「観経変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、唐の高僧・善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』(『観無量寿経疏』)に基づいて作画されたものとされている。なお、当麻曼荼羅の内容については別項「当麻曼荼羅」を参照。 当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。 當麻寺本堂(曼荼羅堂)に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。先述の『建久御巡礼記』によれば、当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、能、浄瑠璃、歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。 今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。 この話はよほど人気があったようで、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。
Wikipiediaより抜粋
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