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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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玉造稲荷神社へ参拝 |
玉造稲荷神社へ参拝 平成三十年 一月十四日参拝 今回は玉造稲荷神社→鵲森宮へ参拝させて頂きました。 大阪府大阪市中央区玉造2-3-8に鎮座する神社です。
参拝させて頂いたご縁は、真田幸村の大河ドラマを初めて最後までみたのですが (歴史好きなのですが)その時のエンディングで幸村最後の地に三光神社があることを知り、 参拝させて頂こうと思い、他に近くにないかと調べると目にとまり参拝させて頂きました。
しかし肝心の三光神社は最後に参拝させて頂く予定だったのですが、目の前まで行ったのですが 時間が間に合わず次回に参拝させて頂きます。
玉造稲荷神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。 聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、 この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、 のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
【境内】 厳嶋神社(市杵嶋姫神) -- 現在地の池(白龍池)に白龍観音が出現したことにより 弁才天を祀ったもので、神仏分離により祭神を市杵嶋姫神とした。 雨乞いの神として信仰される。
万慶稲荷神社(宇迦之御魂大神) -- 大坂城内の各地に祀られていた稲荷社を、 享保年間に一社に合祀し当社境内に祀ったものである。
新山稲荷神社(宇迦之御魂大神) -- 寛政11年(1799年)、当時の大坂城代・松平輝和が 城代屋敷内に当社の分霊を祀ったものである。 1907年(明治40年)、当社境内に遷座された。 新山稲荷は現在の大阪府立清水谷高等学校敷地内に在った。
胞衣塚大明神 -- 豊臣秀頼の胞衣を祀る。 当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、 その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていた。 1945年(昭和20年)、戦災により焼失し、寺山町(現 上町一丁目)、 東阪町(現 玉造一丁目)に遷座していた。 1983年(昭和58年)、大坂築城400年を記念して元の鎮座地に遷座された。 子供の夜泣きに霊験ありとされる。
豊臣家奉納鳥居 -- 慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。 阪神・淡路大震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。
豊臣秀頼公銅像 -- 2011年(平成23年)10月13日に建立・除幕式。
浪花講(お伊勢参り)―伊勢参りが流行した当時の玉造は、大坂以西の伊勢参り出発地であり旅立つ人、またそれを見送る人々でたいへん賑わっていた。町には市場や茶店、菅笠屋等の旅支度を整える店が軒を並べ、道中の安全を当神社で祈願した旅人らが先ず暗峠を目指し旅立って行った。また、江戸などの旅人は伊勢参りを終えた後、遊楽地を求め更に足をのばし大坂へも立ち寄った。その玄関口としての役割も玉造は担っていた。
江戸時代に街道、宿駅制度が整えられたことにより、人々にとって旅がとても身近なものとなった。 しかし、当時の旅は現在と違い安全性はまだまだ乏しかった。街道での事件、事故、旅籠屋での「ぼったくり」、「相部屋」等の不安をかかえながら旅人は伊勢参りへでた。 当時、大坂の玉造に拠点をおき、全国に行商していた唐弓弦師・松屋甚四郎とその手代・源助は、行商の経験から旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようと文化元年(1804)に旅籠の組合である「浪花組」(世話人:松屋甚四郎 発起人:まつ屋源助 ※天保12年(1841)に「浪花講」と名を改める)をたちあげた。この浪花講が指定する優良旅籠屋や休憩所では、「旅人の賭け事・遊女を買う事・酒を飲んで騒ぐ事」等を禁止し、浪花講の看板を軒先に掲げることにより旅人への目印とし、不良旅籠屋等と見分けがつくようにした。更に、旅のガイドブックである『浪花講定宿帳』等を発行し、旅人は定宿帳に記載された街道を歩き、鑑札を宿で提示することにより安心して宿をとる事が出来た。 伊勢参りの出発地である大坂・玉造で創業したこの組織は全国的に広がり、現在の協定旅館・旅行社のルーツにもなったのである。また、「浪花講」講元であった松屋甚四郎の創業地には現在、当神社分社が建ち、平成26年10月には当時の浪花講の看板をモチーフにした「浪花講発祥の地」碑が建立された。
【第一の鳥居】
【第二の鳥居】
【拝殿】
【「浪花講発祥の地」碑】
【豊臣家奉納鳥居】
【豊臣秀頼公銅像】
【御朱印】
【御祭神】 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。 【創建】 伝・垂仁天皇18年 【ご由緒】 社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。 蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、 戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。 豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。 戦国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建された。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、 元和5年(1619年)に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。 社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、 東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた。 豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。 江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。 文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建。
現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、 勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。 現在の社殿は1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲で焼失した後、 1954年(昭和29年)に再建されたものである。 1986年(昭和61年)、創祀二千年を記念して境内に難波・玉造資料館が開館した。 Wikipediaより抜粋
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