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eskky28

Author:eskky28
男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
千光寺へ参拝
令和元年 五月二日 千光寺へ参拝
岐阜県高山市丹生川町下保1553にある寺院です。
飛騨千光寺ともいう。

両面宿儺像など、円空の手になる仏像が63体あり、円空仏の寺としても知られている。
飛騨三十三観音霊場第三十三札所。


本日は朝9時からサッカ-をしてきました。暑かったですが、朝早めなのでまだましでした。
5/24(金)の夜21時もサッカ-をやったので、今週は特にヘロヘロでした。
いつもですが。

今回は前回の続きで飛騨一宮水無神社に参拝の後、飛騨高山の町を横目に通り過ぎて
千光寺に参拝しました。
飛騨高山の町は黒い壁の家が並んだ町で新しそうでしたがキレイな街並みでした。
凄い人が多かったです。



乗用車は左へ大型バスは直進と看板があり左へ曲がり仁王門から入りました。
直進したら大慈門といって社号標などがあり正門という感じだと帰りにわかりました。

【仁王門】
まだ新しかったです。
20190526170330038.jpeg


【仁王門奥の階段】
それほど段数も多くなく全然、大丈夫です。
20190526170724dc2.jpeg


【本堂と桜?】
花もキレイだなと思ったのですが、何だったか分かりません。
20190526170839cec.jpeg


【本堂】
20190526170933d9a.jpeg


【宿儺堂】
両面宿儺だったらお堂の裏からも見えるんちゃうと言いながら、裏にまわりお堂の中をみるとやはり見えました。
どちらから見ても正面を向いていました。
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【宿儺堂の看板】
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【宿儺の彫刻画?】
寺務所で御朱印を書いて頂いている間に撮影しました。
20190526171629e07.jpeg


【寺務所と桜?とサッカ-仲間の方】
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【境内から撮影 奥穂高?乗鞍岳?御嶽?】
雪山がみえたので撮影したのですが、山の名前が分かりません、聞けばよかったです。
記事作成中にホ-ムペ-ジで御嶽山と書いてあるのを発見しました。
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【石碑と桜】
20190526171958ffa.jpeg


【休憩所みたいなところの宿儺の彫刻】
20190526172053ca8.jpeg


【大慈門】
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【社号標】
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【御朱印】
201905261725255c0.jpeg



【本尊】
千手観世音菩薩
【開山】
伝承では仁徳天皇65年(伝377年)両面宿儺が開山したと伝えられる。
【宗派】
高野山真言宗
【山号】
袈裟山
【開基】
真如親王
【御由緒】
伝承によれば、仁徳天皇65年(伝377年)、両面宿儺が開山したと伝えられる。両面宿儺とは、『日本書紀』に拠ると、飛騨国に現れ、民衆を苦しめていた異形の人であり、朝廷が差し向けた武将・武振熊命(たけふるくまのみこと)により退治されたとされている。頭の前後に顔が二つ付いており、腕が前後一対の四本、足も前後一対の四本あるといわれている。しかし、飛騨国、美濃国では両面宿儺は伝説的人物であり、洞窟から現れた際、「我は救世観音の使現なり。驚くこと無かれ。」と村人に伝えたという。
養老4年(720年)、泰澄により白山神社が開かれ、嘉祥3年(850年)頃、真如親王(弘法大師十大弟子の一人。俗名高岳親王。平城天皇第3皇子、嵯峨天皇皇太子)が開基する。
天文年間、兵火で焼失し、天文15年(1546年)に桜洞城(現在の下呂市萩原地域に存在した城)城主三木直頼により再建されるが、永禄7年(1564年)に武田信玄の飛騨攻めにより再度焼失する。天正16年(1588年)、高山城城主金森長近により再建される。
貞享2年(1685年)頃、円空が千光寺に滞在し、両面宿儺像などを彫ったという。
Wikipediaより抜粋

【両面宿儺】
両面宿儺は、計八本の手足に首のない二つの顔という奇怪な姿で描写される。
神功皇后に滅ぼされたとされる羽白熊鷲や、『日本書紀』『風土記』にしばしば現れる土蜘蛛と同様、
その異形は、王化に服さない勢力に対する蔑視を込めた形容とも考えられる。仁徳記の記述は一般に、
大和王権の勢力が飛騨地方の豪族と接触した、5世紀における征服の事実の反映とされている。
また、「ひかがみ」「かかと」が無いという描写から、脛当てを着け、
つまがけを履いた飛騨の山岳民が想像されることもある。

岐阜県の在地伝承
『日本書紀』では皇命に逆らう賊とされる両面宿儺だが、
飛騨から美濃にかけての旧飛騨街道沿いには様々な伝承がのこり、
その内容は『日本書紀』の記述と異なるものが多い。以下に主な伝承を挙げる。

高山市の伝承
元和7年(1621年)の奥書を持つ『千光寺記』には、高山市丹生川町下保にある
袈裟山千光寺 (高山市)の縁起が記されている。
これによれば、仁徳帝のころ飛騨国に宿儺という者があり、
八賀郷日面(ひよも)出羽ヶ平(でわがひら)の岩窟中より出現した。
身のたけは十八丈、一頭に両面四肘両脚を有する救世観音の化身であり、千光寺を開いた。
このとき山頂の土中に石棺があり、法華経一部・袈裟一帖・千手観音の像一躯を得たという。
同じく丹生川町日面の善久寺の創建も両面宿儺大士と伝え、
本尊釈迦如来のほかに両面宿儺の木像を安置する。
また、位山(高山市一宮町)の鬼「七儺」を、両面宿儺が天皇の命により討ったともされる。
位山の付近には飛騨一宮水無神社があるが、享保年間に編纂された『飛州志』では
神宝の一つとして「七難の頭髪」を挙げ、神主家の説として鬼神七難が神威により誅伐された伝承を記す。

下呂市金山町の伝承
『金山町誌』によれば、武振熊命が討伐に来ることを知った飛騨の豪族両面宿儺は、
八賀郷日面出羽ヶ平を出て金山の鎮守山に37日間留まり、津保の高沢山に進んで立てこもったが、
敗れて討死したという。これには異伝があり、出波平から金山の小山に飛来した両面宿儺は
37日間大陀羅尼を唱え、国家安全・五穀豊穣を祈念して高沢山へ去った。
故にこの山を鎮守山と呼び村人が観音堂を建てて祭ったともいう。

関市下之保の伝承
『新撰美濃志』に引く大日山日龍峰寺の寺伝では、飛騨国に居た両面四臂の異人が、
高沢山の毒龍を制伏したとする。その後行基が伽藍を創建し千手観音の像を安置した。
千本桧はこの異人が地に挿した杖が生い茂ったものという。
或いはこの異人は、飛騨より高沢山に移ってのち、霊夢の告により観音の分身となったともいう。
また、『美濃国観音巡礼記』には日龍峰寺の開基を「両面四手上人」としている。
この他に、両面宿儺を討った武振熊命の建立と伝わる八幡社が飛騨各地にある。

伝承の位置づけ
濃飛に点在する伝説は、『日本書紀』の記述に沿うものであっても、
両面宿儺を単なる凶賊ではなく官軍に討伐された飛騨の豪族とする。
そのいっぽうで、あるいは龍や悪鬼を退治し(高沢山・位山)、
あるいは寺院の縁起に関わる(千光寺・善久寺・日龍峰寺)など、
地域の英雄にふさわしい活躍を見せている。
大和王権に抗した古代の豪族を、その土地の人々が尊崇し続けてきたかのようである。
とはいえ、伝説の多くは江戸時代以降に記されたものである。
たとえ江戸期における信仰が在来の伝承に基づくとしても、
『日本書紀』に登場する両面宿儺を寺院の創建と結びつけることは困難である。
これらの伝説の起源については定説を見ないが、在地伝承に現れる両面宿儺に、
王権によって矮小化され、観音信仰の蔭に隠れるようにして生き延びた英雄の名残を見いだし、
位山を神体とする飛騨一宮水無神社の本来の祭神に想定する研究者もいる。
Wikipediaより抜粋


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飛騨一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)へ参拝
令和元年 五月二日 飛騨一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)へ参拝
岐阜県高山市一之宮町一の宮上5323に鎮座する神社です。

飛騨一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)は、岐阜県高山市にある神社。
式内社、飛騨国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、南西にある位山が御神体で奥宮がある。
分水嶺上にありそのエネルギーをもつ霊山。
巨石が点在する位山は、ピラミッドであるとも、世界最大級のパワースポットだとも言われている。
戦災を逃れるため、1945年に熱田神宮から天叢雲剣が一時移されていた社である。



G.W中にサッカ-仲間の方とのオヤジ旅第三弾として飛騨高山に行ってきました。
(第一弾 冬至の伊勢神宮の日の出、第二弾 岐阜城でした)

私が大変興味をもっている『飛騨の口伝』による日本のはじまりの地なので、
ずっと訪れたかった場所でした。

今回は断念したのですが位山の磐座郡にも行きたかったです。
天照大御神のお墓などがあり、天皇陛下の代替わりの即位式に、
位山の一位の木で作られた笏木は今なお献上されているとのことです。

片道3~4時間のクマ出没する登山をするか、車で林道を走れば行けたのですが、
登山する時間もなく、底をするので林道も走れませんでした。


飛騨一宮水無神社→高山の千光寺→福来記念・山本資料館(飛騨口伝の本を販売している)
→白川郷(サッカ-仲間の方の希望)の順で行ってきました。
朝4時に家を出発→5時集合・出発→飛騨高山→24時頃家に到着しました。

予定していました日輪神社(各地にあるピラミッド状の神体山の原形とのことらしいです)、
アニメ「君の名は」の舞台である飛騨古川駅、気多若宮神社へは行くのを忘れてしまいました。

結果的には白川郷に降りる高速道路がかなり渋滞していて、回らなくて良かった気がします。



飛騨一宮水無神社に9時30頃に到着しました。するとちょうどお祭が行われていました。
なかなか拝殿に参拝できず、御朱印も頂けないと諦めかけましたが、
一区切りついた時に参拝をさせて頂きました。
社務所で他の方が頂いているのを見かけたので私も頂いてきました。


【到着した瞬間に車の中からの撮影】
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【鳥居と社号標】
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【社号標と御神木】
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【鳥居横のあの狛犬】
シュッとしていますね。
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【鳥居横のうんの狛犬】
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【手水舎】
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【手水舎の龍の口】
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【神門】
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【拝殿前の祭りの様子】
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【祭りの様子】
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【神輿】
こんな近くで拝見することもありませんので撮影しました。
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【拝殿横のあの狛犬】
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【拝殿横のうんの狛犬】
梅?もキレイに咲いていました。
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【拝殿】
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【絵馬殿】
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【御神木】
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【伝説のねじの木】
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【ねじの木の説明板】
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【御朱印】
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【主祭神】
祭神は以下の15柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称される。
主祭神
御歳大神 - 「水無神」と呼ばれる
配神
大己貴命、三穗津姫命、応神天皇、高降姫命、神武天皇、須沼比命、天火明命、少彦名命、高照光姫命、天熊人命、天照皇大神、豊受姫大神、大歳神、大八椅命
水無大神は地名に由来すると考えられる。水無大神は、御歳大神とする説のほか、八幡神などとする説もある。

【創建】
創建年代は不詳
【神体】
位山(神体山)

【社格等】
式内社(小)
飛騨国一宮
旧国幣小社
別表神社

【ご由緒】
創建の年代は不詳であるが、清和天皇の時代に従五位上の神階の記事がある。
『延喜式』では小社に列格し、飛騨国の一宮とされた。
鎌倉時代には「水無大菩薩」と称し、社僧が奉仕した。近世には水無大明神・水無八幡宮と称した。
戦国時代の戦乱で祭祀が途絶え、附近の寺が管理したが、元禄年間から吉田神道系の神職が奉仕するようになった。
1773年(安永2年)の安永騒動(大原騒動)では、水無神社が農民の決起集会の場所となる。
その事により、神主4人が捕らえられ、磔にされている。
1871年(明治4年)、国幣小社に列格した。
明治7年から10年までは、島崎藤村の父で『夜明け前』の
主人公・青山半蔵のモデルとなった島崎正樹が宮司を務めていた。
1945年(昭和20年)8月22日から同年9月19日までの間、熱田神宮の神体(天叢雲剣)が一時避難していた。
Wikipediaより抜粋

【奥宮 位山】
宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺となっており、水主の神の坐す聖域、
神体山として古来より霊山として名高く、当神社の奥宮と称しています。
位山の山中には巨石群があり、大石を以て何かを築いたといわれたり、
初期の古墳のようであり、ドルメン(支石墓)のようでもあるなど様々な説がありますが、
何かの神秘的な霊場であったと考えられています。
また位山の主の宿儺(すくな)が雲の波を分け天船に乗って位山に来たという古伝説もあり、
位山が古代において何か宗教的な神秘性を持ち、位山の神秘性が宿儺という人智を超えたものに凝固したと見る説もあります。
この霊山にはイチイ(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、
位山のイチイの木を笏の材料として献上した際に、この木が一位の官位を賜ったことから木は一位、
山は位山と呼ばれるようになったという説があります。
ホ-ムペ-ジより抜粋

【位山の一位笏木】
水無神社(みなしじんじゃ)には一宮神領の位山のイチイの樹をもって
謹製した笏を朝廷に献上している古例があります。

位山のイチイの笏木献上の初見は、
平治元年(1159年)飛州一宮神主大江某より御笏一対と御衣桁を献上
建武年間(1334年~1335年)国司姉小路家綱より後醍醐天皇に御笏の料として献上
元和2年(1616年)一之宮別当千光寺より廣橋大納言兼勝の伝奏によって位山の一位の笏木を献上
とあり、国司等による献上もありました。

文化~文政(1814年~1829年)の頃 大宮司の梶原肥後守景直より笏木を献上
嘉永6年(1853年) 一宮水無神社(みなしじんじゃ)より笏木を献上
安政2年(1855年) 大宮司の梶原景審より笏木を献上
など、主として水無神社(みなしじんじゃ)より献上することが以後先例となりました。

近代に入り、明治2年(1869年)3月2日に大宮司の毛利茂から献上
大正4年(1915年)7月は宮司不例のため押上森蔵中将は奔走されました。

昭和3年(1928年)9月28日に河合宮司によって大嘗祭御用御笏献上
平成2年(1990年)10月4日藤枝宮司によって大嘗祭御用御笏が献上されるなど、
古例にならい現在でも天皇陛下の即位と伊勢神宮式年遷宮に際しては、
水無神社(みなしじんじゃ)より位山のイチイの笏が献上されています。
ホ-ムペ-ジより抜粋


続きは次回に致します。
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伊奈波神社へ参拝
伊奈波神社に参拝
平成三十一年四月十三日に岐阜城へ登城後に参拝
岐阜県岐阜市伊奈波通り1-1に鎮座する神社です。

美濃国三宮で、旧社格は国幣小社。式内社「美濃国厚見郡 物部神社」の論社である。



【伊奈波神社 社号標と第一鳥居】
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【狛犬と第二鳥居と灯篭】
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【神馬像】
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【手水舎】
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【楼門】
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【神門の注連縄】
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【神門脇のあの狛犬】
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【神門脇のうんの狛犬】
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【拝殿】
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【あの逆さ狛犬】
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【うんの逆さ狛犬】
なでなでしてきました。
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【黒龍大神 社号標】
この記事を書いているときに知ったのですが、願いの叶うパワスポで有名らしかったです。
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【龍頭石】
分かりにくいですが龍の頭に見えました。撮影の角度が悪かったですね。
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【吉備神社 鳥居と社号標】
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【社務所前の龍の彫刻】
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【御朱印】
御朱印を頂いた後、隣に石上神宮の御朱印が書かれていたのですが、
「伊奈波神社はご縁があるのですよ」と言われました。
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【岐阜駅前の黄金の信長像】
岐阜駅前まで行きました。
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【味噌カツ丼】
帰りの御在所サ-ビスエリアで食べました。
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【主祭神】
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命

【創建】
(伝)景行天皇14年

【社格等】
式内社(小)論社
旧国幣小社
別表神社

【ご由緒】
社伝によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、
五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、
朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという。

景行天皇14年、武内宿禰が稲葉山北西の椿原(現在の岐阜公園内の丸山)に
五十瓊敷入彦命を祀ったのに始まるとされる。
壬申の乱の際に天武天皇が当社に戦勝を祈願したという。
天文8年(1539年)、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、
現在地に遷座した。この際、その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、
稲葉山城の鎮守とした。以降も、岐阜の総産土神として篤い崇敬を受けた。
明治6年に県社に列格し、昭和14年に国幣小社に昇格した。
『延喜式神名帳』では、美濃国厚見郡の神社として「伊奈波神社」の社名は
記されていないが小社として「物部神社」の社名があり、
これが当社に合祀された物部神社であるとされる。
あるいは、当社自体が式内・物部神社であるとする説もある。
『美濃国神名帳』には「正一位 伊奈波大神」「従五位下 物部明神」と記載されている。
Wikipediaより抜粋

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賀茂御祖神社(下鴨神社)に参拝
賀茂御祖神社(下鴨神社)に参拝
平成三十年九月二十三日に参拝
京都府京都市左京区下鴨泉川町59に鎮座する神社です。

賀茂御祖神社は通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
国際連合教育科学文化機関 (UNESCO=ユネスコ)の世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。

賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。
両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、
左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。
金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。
神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。
御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。現存。飲料可。


【西参道鳥居】
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【手水舎】
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【南口鳥居】
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【さざれ石】
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【相生社】
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【相生社の御由緒看板】
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【連理の賢木(れんりのさかき)】その姿から縁結びの御利益があるとされている。
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【連理の賢木(れんりのさかき)の看板】
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【楼門】
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【中門】
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【鴨の社えと詣 看板】
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【御手洗池】確かおみくじを池の水に浮かべると字が浮かんでくると何かで見た気がします。
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【御朱印】
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【主祭神】
東殿:玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
西殿:賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父(賀茂別雷命の祖父)

【創建】
不詳
(崇神天皇7年頃?)

【社格等】
式内社(名神大)
山城国一宮
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社

【本殿の様式】
流造

【ご由緒】
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。
また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。
一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。
平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、
賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、
名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。
弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、
本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。
Wikipediaより抜粋

いつもご訪問して頂きありがとうございました。

岐阜城の記事の後、続きは次回と書いていましたが完全に忘れていました。
近いうちに書きたいと思います。

5/2に念願の飛騨高山にも行きましたので、こちらも忘れないうちに書きたいと思います。

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