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eskky28

Author:eskky28
男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
伏見稲荷大社へ参拝
本日9/30は台風24号(前回と同等クラス)が、大阪にも夕方から夜に
上陸するということで停電に備えています。
前回とはコ-スが違うので空振りになるかもしれませんが、
電源ポ-タブルを購入していたので出し、ランタン(単一電池購入済み)も出しています。

電源ポ-タブルとは片手でもてる電源です。13,000円ぐらいです。
100Vコンセント2口、USBが3口ありスマホの充電もできます。
トイレもコンセントを差し込めば流せます。
あると万一に役に立つと思いますよ。

風呂も夕方には入ろうということになりました。
準備も無駄に終わればよいのですが・・・。


今となっては少しではないですが、さかのぼって今年の1月からの
参拝記録になります。

平成三十年 一月三日参拝
今回は伏見稲荷大社へ参拝させて頂きました。
京都府京都市伏見区深草藪之内町68に鎮座する神社です。

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府京都市伏見区深草にある神社。
旧称は稲荷神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。
稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。
全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。

初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。
Wikipediaより

今回は正月で京都ということで、大混雑するということで
4~5駅手前の駅近くのコインパ-キングに停めて、電車で行きました。

駐車場はホームペ-ジによるとあるそうですが、
広さや無料かどうかはわかりませんでした。

この日は伏見稲荷大社→晴明神社→御金神社にお詣りする予定にしていました。
拝殿で参拝させて頂いた後に千本鳥居、奥社など参拝して
どんどん山を登っていきました。軽いハイキングのようでした。

お正月ということもあり混雑すると思い、朝8時30分頃には参拝させて頂きました。
外国人もたくさんいてました。稲荷山から降りてきた10時30分頃の拝殿前は
かなり混雑していました。

うる覚えですが1時間30分ぐらい登ったところの
四ツ辻で諦めて降りていきました。山頂まで登って四ツ辻まで戻ってくるのに
まだ40分かかるとのことでした。

下りの階段で左ヒザが痛み出しびっこ引きながら降りました。
その日一日中びっこ引きながら参拝いたしました。

【鳥居】
ホ-ムペ-ジを見ると横に社号碑がありました。
この時は何も考えていませんで忘れていました。
20180930175623ab7.jpeg


【楼門】
この建物は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきました。
秀吉の母大政所殿の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加する、と記したいわゆる“命乞いの願文”が伝来しています。
しかし造営伝承と伝来文書との整合性については多少の疑問がありました。ところが昭和48年に楼門の解体修理が行われたところ、願文の年次と同じ「天正17年」の墨書が発見され、伝承の正しかったことが確認されました。神社の楼門の規模としては最も大きいものに属します。
伏見稲荷大社ホ-ムペ-ジより
201809301758321c7.jpeg


【千本鳥居と扁額】
20180930180058023.jpeg


【境内案内図】
20180930180331265.jpeg


【伏見神宝神社】
20180930180513196.jpeg


【伏見神宝神社の狛犬でなく狛辰】
見にくいですが狛犬が狛辰です。神様にごひいきされる すごい「神社参り」という本に
載っていたのですが、「生まれた日の干支」という守護動物を調べてそれが私は辰でした。
狛辰は眞名井神社と伏見稲荷大社の奥社のさらに奥にある神宝神社にいてます。
見つけにくいです。
辰が守護動物の方は、狛辰を探すのと同時に、龍神様にご縁を結ばれると
ほかの人よりも開運が早いとのことです。
20180930180848c00.jpeg


【伏見神宝神社の御朱印】
201809301810417b4.jpeg


【伏見稲荷大社の御朱印】
201809301812440b9.jpeg


【御祭神】
祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている。
主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、
大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、
田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っている。

宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ) - 下社(中央座)
佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)- 中社(北座)
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) - 上社(南座)
田中大神(たなかのおおかみ) - 下社摂社(最北座)
四大神 (しのおおかみ) - 中社摂社(最南座)
【創建】
和銅年間(708年-715年)
【ご由緒】
山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。
たしかなことは不明ですが、深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、
太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、
稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようです。
この太秦の秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、
当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、
長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、
河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。
また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である
賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。
言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、
新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、
そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの
実をとったのであろうと考えられています。
こうして太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、
深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、
御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。
ホ-ムペ-ジより抜粋


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伊弉諾神宮へ参拝
久しぶりに神社に参拝させて頂いたときのことに戻ります。
おのころ島神社の次に参拝させて頂きました。

昨日(9/24)にこの記事を書いていたら、パソコンが画面が消えているのに
電源は入ったまま何も受け付けず諦めてスマホで写真を貼り付けていました。
朝起きてからパソコンをみたら電源が切れていたので、入れると普通につきました。
ブログを確認すると、保存されておらず一切進んでいませんでした。ガクッとなりました。


平成三十年 四月二十九日に参拝させて頂きました。

兵庫県淡路市多賀740に鎮座。
伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)は、兵庫県淡路市多賀にある神社。式内社(名神大社)、淡路国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
所在地である旧一宮町(現 淡路市)の地名は、当社に由来する。通称「一宮(いっく)さん」「伊弉諾さん」。

伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀の冒頭にその創祀を記し、神代の昔に伊弉諾大神 が、御子神の天照皇大御神に統合の権限を委ね、淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過された神宅の旧跡と伝えられてゐます。ここで終焉を迎へた伊弉諾大神は、その宮居の敷地に神陵を築いて祭られました。これを創祀の起源とする最古の神社が伊弉諾神宮です。明治以前は、神陵の前方に本殿がありましたが、明治初年の国費により造営で、神陵の墳丘を整地して本殿を真上に移築し、現在の景観に整へました。
平安時代の延喜式の制では、名神大社。三代実録には神格一品。明治の制度では官幣大社に列格し、古くから淡路國の一宮と崇められ、地元では日本第一番の宮であることから「いっくさん」とも呼ばれます。また日之少宮、津名明神、多賀明神、淡路島神、一宮皇大神とも別称されてゐます。
昭和二十九年に、昭和天皇が「神宮号」を宣下されましたので、伊弉諾神宮と改称し、兵庫県下唯一の「神宮」に昇格しました。
(ホームページより抜粋)

境内に無料駐車場はあるのですが満車で、少し離れた(3分くらい)無料駐車場に停めました。
4~50台停めれると思います。


【社号標と第一鳥居】
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【第一鳥居】
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【あの狛犬】
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【うんの狛犬】
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【第二鳥居】
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【手水舎】
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【手水舎の亀】
龍でなく亀になっており珍しいですね。
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【神門】
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【拝殿】
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【拝殿の扁額】
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【夫婦大楠】
樹齢約九百年。元は二本の「楠」がいつしか根を合わせて一株に成長したもので、御神霊が
宿り給う御神木と信仰されており、淡路の古地誌にも、「連理の楠」と記されています。

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【太陽の運行図】
伊弉諾神宮を中心に
夏至の日の出は諏訪大社から昇り、日の入りは出雲大社へ沈む直線
春分秋分の日の出は伊勢内宮から昇り、日の入りは海神神社へ沈む直線
冬至の日の出は熊野那智大社から昇り、日の入りは高千穂神社へ沈む直線
太陽の運行の中心地になっていると説明しています。
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【太陽の運行図 ズーム】
偶然でなく意図的に神社が配置されているのかと大変驚きました。
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【日時計 北】
太陽の運行図の石碑の隣に日時計がおいてあり、
その方角にある神社名が書いてありました。
東西南北以外に間の北東など斜め方向もありました。
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【日時計 南】
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【日時計 東】
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【日時計 西】
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【御朱印】
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【お土産】
たまねぎの焼酎です。道の駅で購入しました。
大変飲みやすくて、おいしかったのですぐになくなりました。
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【御祭神】
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと
【創建】
神代(日本書紀・古事記による)
【ご由緒】
『日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、
最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、
当社の起源とされる。
伊弉諾尊の幽宮と伝わる場所は、他に滋賀県の多賀大社があるが、
これは『古事記』の真福寺本の「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」
(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述による。
ただし、多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが
判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。
『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも
真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐淡路之多賀也。」
になっており、その他の諸々の理由から、学界でも「淡海」でなく「淡路」を
支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。
なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。
Wikipediaより抜粋


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外宮はシラギ神崇拝教が作った見張り所
やっと最終回(本の紹介)です。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。

現在の出雲大社とは関係ありません。


二一代雄略天皇の御代に、ついに見つけられる
「八咫鏡」は伊勢のどこかにあるのは分かっていたので、
シラギ神崇拝教はやっきになって探していたのです。
時に「八咫鏡」をお守りする皇女はタクハタ姫でした。
姫は「八咫鏡」を抱いてシラギ神崇拝教から逃げていました。

五十鈴川の上流まで逃げた時に、これ以上逃げ切れないと悟った姫は
誰も来ないうちに「八咫鏡」を地中に埋めて、力の限り方向を変えて走りました。
そこまできて姫は侍女が追い付いてくるのを待ちました。
そして追いついた侍女に「私はここで自害しますから、あなたは早くここを去って
逃れて後で「八咫鏡」を掘り出し次の斎宮様に必ずお渡しして下さい」と
埋めた場所を教えました。

姫は侍女が無事逃げるのを見届けて、最後にもう一度天照大神と父・天皇に
お詫びをし、「八咫鏡」の無事を神にお祈りをして、父から伊勢へ出発する時に
賜った剣を出して、胸を一突きにしてきれいな最期をとげられたのです。

ところが『日本書記』にはあろうことか、タクハタ姫は子供を孕んだかのごとくに書き、
首を吊って死んだと最大の侮辱を浴びせて書いています。
出雲のシラギ神崇拝教のこの下品さには、開いた口がふさがりません。

蘇民将来の印
伊勢市の古い町並は民家が出雲の社と同じ切妻建築様式で玄関が妻入りに
なっています。出雲・シラギ神崇拝教は執拗に民家に隠されていないか調べに
来るために、伊勢の住民は出雲の社と同じ妻入りにして「私は出雲・シラギ神崇拝教です。
ですからこの家には八咫鏡はありません」と表明したのだと思います。

また伊勢志摩の多くの家で蘇民将来子孫家門という文字を書いた札を注連縄につけて
玄関に飾っています。しかも注連縄は正月のあいだ飾るのがふつうですが、
一年中飾っているのです。

蘇民将来の説話が各地に残っております。
最も古いとされるのが備後風土記によるもので、昔、武塔神が求婚旅行の途中宿を求め
ました。裕福な弟の将来はそれを拒みました。貧しい兄の蘇民将来は一夜の宿を提供しました。
後に再びそこを通った武塔神は兄の蘇民将来とその子らの腰に茅の輪をつけさせ、
弟の将来たちは宿を貸さなかったという理由で皆殺しにしてしまったという話です。
茅の輪をつけている人は助かったのです。

武塔神とはスサノオの神なりとありますから出雲であることは確かです。
後にスサノオに変えたのでイソタケルを奉じたシラギ神崇拝教であったのです。

この蘇民とはまさに「ソの民」のことです。
今では忘れられていますが、ソ・新羅の民を、将来とは招来ではなかったのか、
喜んで招く、ということではなかったのかと筆者は思います。

蘇民将来の御札や茅の輪などは、ソ民つまりソから来た人たちやシラギ神崇拝教を
私の家では快く思っていますよ、ということを表明する印でなかったかと思います。
拒否して蘇民将来の印を掲げない家はシラギ神崇拝教に皆殺しにあうような迫害を
受けたことを物語っているのです。

天孫が大勢住んでいた伊勢に、大勢のソ民を移住させ勢力をつけたシラギ神崇拝教は
蘇民将来の印が掲げて有るか無いかを徹底させて「八咫鏡」をしらみ潰しに探したのです。
そしてついに二一代雄略天皇のの時に見つけられてしまったのが、タクハタ皇女の
事件であったと思われます。


シラギ神崇拝教の拠点が外宮に  しかも先祭
あわやのところで「八咫鏡」を守り抜きましたが、出雲・シラギ神崇拝教は見張り所を作って、
天孫を監視したと思われます。そのかつての拠点・見張り所であり伊勢のシラギ神崇拝教の
本拠地は先にはイソタケルを祀る社であり、後には豊受大神ことオオクニヌシを祀る
社であり、何とまあ驚くなかれ、それが外宮になっていると推定されます。

飛騨から行った人々もあまりに出雲がしつこくいじめるので家を妻入りにし、
蘇民将来の印を玄関に掲げて「出雲・シラギ神崇拝教」を表明して、表向き従ったふりをして
命からがら難をのがれたのです。しかし心は天照大神から絶対に離れることはなかったのです。

その意味が長い年月が経つうちに忘れ去られて、妻入りや玄関に蘇民将来の御札を付けた
注連縄を飾る習慣だけが今に残っていると思われます。


伊勢で「八咫鏡」を守る天孫たちをいじめた元凶が今では外宮なのですから驚きです。
その外宮があろうことか外宮先祭といって、内宮より優先されて先に行われるのです。
このような事が今尚行われているのです。

余談ですが、皇太子殿下が参拝されたときも外宮を先に参拝され、その後に内宮に
お参り参拝されたのです。
御自らの御先祖の天照大神を参拝される前に、内宮をいじめた外宮に挨拶に
行かれるとは、昔出雲に抑えられていた頃の習慣がいまだに続いているのは誠に残念の極みです。


今まで考えてもみなかったのですが、何故、天照大神を祀る神宮が伊勢にあるのか?です。
本来、天照大神は天皇のお住まいの大和の一等地に盛大にお祀りされなければならないのです。
今でこそ伊勢ですが、あの当時、なぜあんなに辺鄙な片田舎に神宮があるのか?
考えてみれば不思議です。
不思議と思わずに今日まできてしまったのです。
天皇のおわします都に祀ることができなかったのです。明治になるまで天皇が参拝できなかったのです。
それには誰も知らない、恐ろしい歴史が隠されていたのです。

我々日本民族が絶対に忘れてはならないことは、
「現在の伊勢神宮があるのは、天照大神はを古神道を命をかけて、
命を捨てて守り抜いて下さった方々があったからである」ということをです。
そのお陰で「八咫鏡」が、伊勢神宮が護られ続けてきたということをです。

そのお陰で、今、伊勢神宮を参拝させて頂くことができるということをです。
ただただ感謝です。

以上、長々と続きましたが私が最も衝撃を受けた本『暴かれた古代史』でした。
私が怖かった話は二つ、出雲の古神事の話、外宮の話、でした。
高天原は飛騨であったことなど、にわかには信じられないですが、本を読んでいると
心の中にモヤモヤもありますが、妙に納得させられました。
信じるか信じないかはあなた次第です!の世界ですね。

まだ飛騨も出雲も参拝させて頂いたことがないので、近いうちに参拝させて頂きたいです。

そういえばイザナギノミコトとイザナミノミコトを祀られてる多賀大社(滋賀県)に
参拝させて頂いたときにも、目の前にあるお土産屋さんや家などにも
蘇民将来のお札か注連縄を見かけたことがありました。
同様なことがあったのでしょうか・・・。


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ヤマト姫 伊勢国へ
台風21号の影響で停電しましたが、翌日17時頃に自宅は復旧、
工場は翌々日の昼に復旧しました。
水道は使用できたから、まだましでした。
マンションでは水道もとまっていたそうです。
ニュ-スなどみると大阪でも南部(関西空港があるほう)被害が
大きかったところが多いような気がします。

前回からの続きです。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。


鏡を背負うヤマト姫  苦難の道遠し
世間には出雲のシラギ神崇拝教の信者が満ちており、誰がシラギ神崇拝教の信者かわからず、
親戚のなかにさえ信者がいる中での逃避行は、かつて天照大神の指示で飛騨から降りてきた
人達の住んでいるところを目指したと思われます。


「八咫鏡」を託されたヤマト姫の苦難の道のり
奈良県大宇陀町の宇多秋宮に四年
十三キロ離れた佐々波多宮に移られ
今度は三重県名張市の隠市守宮(なばりのいちもりのみや)に二年
上野市の穴穂宮に四年
伊賀町の敢都美恵宮(あえとみえのみや)に二年滞在され
滋賀県甲賀郡の甲可日雲宮に四年(こうかのひくものみや)に四年
滋賀県近江町の坂田宮に二年
岐阜県巣南町の伊久良河宮に四年
愛知県の中嶋宮
そしてついに伊勢国へ
三重県多度町・桑名野代宮に入られました。
(『倭姫命世紀』参照)


ヤマト姫 伊勢国へ
伊勢国といえば一の宮椿大神社です。そうです、鈴鹿の山本です。
その昔飛騨のスメラ命の先祖の分かれが鈴鹿に降りてきて地盤を築き、
大和の開拓を助け天孫降臨を助け一大勢力を誇っているのです。

三重県多度町・桑名野代宮にヤマト姫が着かれると、さっそく椿大神社・サルタヒコ大神の
子孫のオオタ(三輪山を乗っ取った大田タネコとは全く別の血筋)が馳せ参じ鮎を
天照大神にお供えされたという記録があります。
ここに四年おられた後、鈴鹿の山本へこっそり立ち寄られました。
天照大神と天皇に心から忠誠を尽くす椿大神社の方々とヤマト姫は
今後のことを相談されたのです。


この後オオタがお守りして道案内され
亀山市・奈具波志忍山宮(なくはしおしやまのみや)
津市・阿佐加藤方片樋宮(あさかのふじかたのかたひのみや)に四年
松阪市・飯野高宮に四年
多気郡明和町・佐々牟江宮(ささむえのみや)
伊勢市・伊ソ宮(いそのみや)ソの字が変換出来ませんでした。
大宮町・大河之滝原宮(おおかわのたきはらのみや)
伊勢市・矢田宮
伊勢市・家田々上宮(やたのたかみのみや)
伊勢市・奈尾之根宮(なおしねのみや)
伊勢市・五十鈴の河上
伊勢市・伊雑宮(いざわのみや)

と逃げました。(『倭姫命世紀』参照)

ついに伊勢に逃げ込み、ヤマト姫一行は姿をけしてしまったのです。
ようやく出雲・シラギ神崇拝教から逃げ切りました。


サルタヒコの子孫のオオタは後に伊勢の中村に宇治土公(ウヂノツチノキミ)と
名乗って住み、稲を作って神宮にお供えしました。
椿大神社の近くを流れる御幣川から鮎を取ってお供えし、椿大神社の茅で神宮の
屋根を葺き、一族挙げて代々の天照大神を守る皇女を守り神官にお仕えしました。
椿大神社代々の方々と天孫達が伊勢神宮を守りぬいたのです。

そのお陰で今日の伊勢神宮があること疑いません。
飛騨から降りられてから二千数百年にわたって椿大神社が代々一族をあげて
天照大神と天皇に忠誠を尽くして下さったお陰で今日の日本があるといっても過言
ではありません。
『椿二千年史』でうかがい知ることができます。


よその神社が、時には名前や祭神をシラギ神や出雲神に替え、時には
神主家が出雲に乗っ取られる中で、二千数百年にわたって、尊く正しく守られてきた
椿大神社の現在(平成二十二年)の宮司は山本行恭氏です。

瀧原宮、伊雑宮も以前伊勢神宮を参拝させて頂いた後に
参拝させて頂いたことがありました。

またまた長くなってしまったので次回にします。
この本のご紹介もあと少しです。
もう少しお付き合い下さい。

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台風21号 の影響 ご報告(大阪の端、北部)
台風21号の影響で現在も停電中です。
14時前から工場も自宅も停電しています!

どうせ残業するので通り過ぎれば関係ないと思っていましたが、停電で機械もパソコンも電話も動かず何も出来ませんでした。

16時過ぎに風も収まってきたので帰宅することにしました。

帰り道、瓦や木、草、ゴミが散乱していました。
工場付近と自宅付近だけ停電していて、信号機も消えていました。
しかし、すぐ隣の信号機はついてたりしていました。何故?と不思議に思いました。

自宅で明るいうちにシャワー浴びておこうと、順番に水シャワーを浴びていきました!
ギリ耐えれました!

食事もロウソクとランタンで灯りをとりました。
テレビ、スマホを見れないので久しぶりに子供たちとトランプや任天堂DSで対決して遊びました!
普段は全然遊んでくれません。

トイレも流れないので、洗面器で流しています。

スマホの充電を車で少しだけしました。
夜遅くに気づいたので、近所迷惑になるので少しだけにしました!ビール飲んでいたので走行出来ませんでした。

真夏じゃないのが救いですが、窓全開でも少し暑いです。

冷蔵庫もダメで半分とけたアイスを食べました。

近所のガソリンスタンド
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「八咫鏡」が危ない
前回からの続きです。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。



「八咫鏡」が危ない
ニギハヤヒの御霊代が盗まれるの報せが入ると、天皇は直ちに笠縫村のトヨスキイリ姫の
元へ使いを走らせました。

「八咫鏡」が危ない!
これは皇位の印であり超一大事なのです。

十代崇神天皇は皇女のトヨスキイリ姫に「命がけで守ってくれ」と頼み、
姫は「八咫鏡」を抱いてその日の夜、こっそりと笠縫村から姿を消しました。

大和の親戚を頼って転々とされました。
ところがもはや大和には「八咫鏡」を背負うトヨスキイリ姫の安全な場所はなかったのです。

大和を逃れたトヨスキイリ姫は、丹波の親戚である但波乃吉佐宮(たにわのよさのみや)に
隠れました。
大和から天照大神が消えた事を知った出雲のシラギ神崇拝教は、慌てて必死で探しました。

そして四年ほど経った頃、ついに出雲のシラギ神崇拝教にみつけられてしまいました。
丹波が危ないとわかると、トヨスキイリ姫は再び「八咫鏡」を抱いてこっそり丹波を去りました。

そしてまた、
大和の伊豆加志本宮へ帰りましたが、留まること八年にして
今度は木の国(和歌山市)奈久佐浜宮に三年
吉備国(海南市)の名方浜宮に四年滞在され、再び大和へ帰りました。
(『倭姫命世紀』参照)

トヨスキイリ姫を匿ってくれる社でも出雲に漏れたら最後、執拗に攻め込んできて
社も家族も、トヨスキイリ姫もろともに危険なのです。
逃げてひっそり暮らしていてもすぐに出雲のシラギ神崇拝教に見つけられるのです。
もうまわりはすっかりシラギ神崇拝教なのです。

そこら中にシラギ神崇拝教の目が光っているのです。
トヨスキイリ姫は失意のうちに大和に逃げ帰ったのです。

小夫でヤマト姫と交代
トヨスキイリ姫が逃げ帰ったのは大和の桜井市小夫(おおぶ)でした。
小夫は二代綏靖天皇の御兄様一族の大事な信頼すべき所なので頼って行かれたのです。

もう若くないトヨスキイリ姫は、身も心もボロボロに疲れ果て体力の限界を感じていたのです。
すでに父・崇神天皇は亡くなられて、垂仁天皇の御代にかわっていました。

天皇は賢くて意志の堅固な皇女ヤマト姫に妹の皇女トヨスキイリ姫の後を託されたのです。

ヤマト姫は小夫でトヨスキイリ姫とほんの数日間、目立たぬように過ごしました。
なにせ三輪山のすぐ近くなのです。

やつれて疲れ果てた、しかし御無事なお姿の叔母様にお会いして、
ヤマト姫は泣きながら、とにかく今日まで「八咫鏡」をよくぞお守りとおしてくれたと
いう天皇からのねぎらいの御言葉をお伝えしました。

命からがら御鏡を守り抜いた苦労と、長年培った逃げの方法を教え語り尽くせぬ話を
されたのです。

こうして小夫でヤマト姫と交代されたのです。そして、再出発の印にこの小夫の地に
四つ石を並べて敷き、必ずや天照大神後鎮座の地を探してその地に同じように
四つ石を並べるとヤマト姫はトヨスキイリ姫に堅く誓いました。
(小夫の天神社の参道登り口に横一列に四つ石が並んでいます)


小夫の天神社
ヤマト姫の出発地が現在の小夫の天神社です。
はじめは天照大神とともにトヨスキイリ姫とヤマト姫が祀られていたと思われますが、
現在の祭神は天照大神、大来(オオク)皇女、アメノコヤネ命、応神天皇、
菅原道真(野見宿禰の子孫で出雲の神)です。

当神社は古くは天神(アマツカミ)神社であったと由緒にあります。
ここは三輪山に近く、ことあるごとに何かにつけていじめられ、村中が命からがらしかたなく、
ず-と後に菅原道真を祭神に入れて出雲の傘下に下って出雲からの攻撃の難を
逃れたと思われます。
菅原道真を祭神に入れて、天神(テンジン)社になり、その時トヨスキイリ姫とヤマト姫が
祭神から消されたと推定されます。

ヤマト姫を送り出したトヨスキイリ姫は、小夫でひたすら「八咫鏡」とヤマト姫の無事だけを
祈って、世を忍んで静かに生涯を終えられたのではないかと思います。
四十代天武天皇の皇女、大来(オオク)姫が伊勢神宮の斎宮として行かれる時、
このゆかりの地で身を清めてから行かれた尊く深い意味のある地なのです。


三輪山に近く、三輪山に睨まれると刀、槍、棒を持って攻められて村が潰れてしまう程なので、
村中相談のうえ、やむなく菅原道真を祀りさらに荒神といって竈の神を祀っているが、
その前は偉い天孫の神が祀られていたと村に言い伝えていると語りました。
荒神様とはシラギ神なのです。


元伊勢といわれている理由が、しっくりくるような気がしました。

またまた長くなってしまったので次回にします。
この本のご紹介もあと少しです。
もう少しお付き合い下さい。

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