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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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大和一の宮をとられる |
前回からの続きです。
今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。
著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。 それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。
弱みにつけ込まれた 天下の御諸山がどうやって乗っ取られたのでしょうか? 大和の民衆の心をつかんだ出雲・シラギ神崇拝教は満を持してじっと その時が来るのを狙っていたのです。
時代は流れて十代崇神天皇の御代のことでした。 疫病が流行り半数以上の民が死にその苦しみは耐え難く流浪し大変乱れました。 崇神天皇は民が苦しむのをたいそう心配なされたのです。 あの頃は、天皇に徳がない、治め方が悪いので神が怒るのだと信じられて、 天皇は大変ご心配なされて、占いをされたり、神に祈ったりして迷われました。 (日本書紀)
天皇が民を心配されるお悩み、そこにシラギ神崇拝教がつけこんで策略をかけたのです。
その時までは、皇室の御先祖の天照大神の「八咫鏡」と天照大神の孫で大和を開拓 されたニギハヤヒ(大国玉神、大國魂神、大物主神ともいう)は宮中の中に祀ってありました。
シラギ神崇拝教の本来の目的は天照大神とその一族の天ツ神々を倒し天皇の位を 取ることにあったのです。天照大神の「八咫鏡」は皇位も印なのです。 「八咫鏡」を持っている人が天皇なのです。その「八咫鏡」を狙ったのです。
しかし「八咫鏡」が宮中にあるとシラギ神崇拝教は手も足も出ないのです。 狙いを定めて時期の来るのをじっと待っていたシラギ神崇拝教が動いたのです。 今こそ天皇から「八咫鏡」を離すその時だ!
占師が「疫病が収まらないのは宮中に神を祀るからです。神を外に祀りなさい」 と天皇に申し上げました。
疫病がおさまる事をひたすら願われる天皇は、シラギ神崇拝教の策略であるとは 思わず、藁をもすがる思いで占師のいうまま、天照大神の「八咫鏡」とニギハヤヒの 二神を外にお祀りなされたのです。
『日本書記』には 「天照大神はトヨスキイリ姫に託して笠縫村に祀った。日本大国魂神(ニギハヤヒ)は ヌナキイリ姫に預けて祀られた。ところがヌナキイリ姫は髪が落ち体が瘠せて お祀りすることができなかった」とあります。
髪が抜け落ちて痩せるとはただごとではありません。極めて重大な悩みがあったと いうことです。何があったのか?『日本書記』には理由が書いていないのです。
『日本書記』には天照大神の御霊代は「八咫鏡」とあり今なお伊勢神宮に祀られて いますが、ニギハヤヒの御霊代については何ら書かれていないのです。 天照大神に御鏡があるようにニギハヤヒにも御霊代があったはずなのです。
さらに天照大神は笠縫村に祀ったとありますが、日本大国魂神(ニギハヤヒ)を どこに移したのかその場所が書かれていません。
日本大国魂神(ニギハヤヒ)の社の場所を言わず、ただ姫の衰弱のみが書かれているのです。
ニギハヤヒの御霊代が盗まれる? 筆者はニギハヤヒの御霊代が何者かによって盗まれ、取り返しのつかない 大変な事になったのではないかと思っています。
だからヌナキイリ姫も心労の結果、髪が抜け落ち瘠せてしまったのです。
『日本書記』は出雲にとって都合の悪いことは触れないのです。 ですから『日本書記』を読んでもまさかニギハヤヒの御霊代があったとは 誰も疑問にすら思わないで読みます。
崇神天皇は、かつてニギハヤヒが住んでおられた御諸山に社を建てて、 ニギハヤヒの御霊代、それは生前愛用されていたニギハヤヒの象徴の 勾玉の首飾りと剣であると思われます。 生前に住んでおられた場所に祀るのは古神道の基本的な姿です。
今回で終わらせるつもりだったのですが、 長くなったので次回にします。 この本のご紹介もあと少しです。 もう少しお付き合い下さい。
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飛騨の口碑は『日本書記』より正しかった |
前回からの続きです。
今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。
著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。 それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。
歴史の裏まで伝えた飛騨の口碑は『日本書記』より正しかった 筑紫平定の見通しが立つと、ニニギの後継者のウガヤフキアエズは 息子のサヌ(神武)に大和に行って都を開くよう命を下したのです。
亡きニニギの志、それは飛騨の安川原で天照大神を中心にしてオモイカネノミコトが 議長になって飛騨のみんなで決めた約束。その約束とは筑紫を平定し、その後は 飛騨まで帰らずに大和で都を開くことなのです。
父の命を受けたサヌ(神武)は祖父ニニギの志を受け継いで大和で都を開くために 帰ってきたのです。 開拓して待ってくれている祖父の兄のニギハヤヒに使者を送って「ニニギの孫が 帰ってきた」と知らせればよかったのですが、突然、大勢の者を引き連れて大和へ 入ろうしたため、ナガスネヒコたちが驚いて交戦することになったのです。
その戦いでサヌ(神武)の兄の五瀬命(イツセノミコト)が流れ矢に当たって亡くなるのです。 サヌ(神武)は退いて太平洋に迂回し熊野の浜に上陸して大和へ入るのです。
その上陸した浜辺にサヌ(神武)が上陸した浜辺であるとの言い伝えとともに、 その地に幼名のサヌの名がサノ(佐野)と訛って今に留めています。(和歌山見新宮市佐野)
話合ってみると、大和ではもうニギハヤヒは亡くなり子供のウマシマデの代になっていました。 大和では長い間筑紫からサヌが来るのを待っていたのでした。 サヌ(神武)がニギハヤヒの孫娘を皇后にするということで円満に話し合いが決着しました。
サヌ(神武)の兄である五瀬命(イツセノミコト)が流れ矢に当たって死んでいるために、 ナガスネヒコを捕らえて殺したと『日本書記』には書かれています。
飛騨の口碑では「ナガスネヒコを表向き殺したことにして東北へ逃がした」と伝えられています。
東北にはナガスネヒコが来てアラハハギ王国を作り、ナガスネヒコの城跡が古来から ヤマト城と呼ばれてきたと歴史に残されています。ナガスネヒコは大勢の家来をともなって 東北に移住して新天地を開いたのです。
これは「飛騨の口碑が『日本書記』より正しいことを証明しています。 詳しくは『日本起源の謎を解く』福来出版を参照して下さい。 飛騨にはこのように歴史の裏の裏まで正確に伝えています。
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本来 三諸山はニギハヤヒの山 |
無事に戸隠神社の参拝から戻ってきました。
寝付けなかったので、AM1時30分に出発して眠くなったらパ-キングで 寝ることにしました。松本の手前らへんで1時間くらい寝ました。
社務所が開くのは9時からなので、8時30分までに着いて参拝をすませて 9時に御朱印を頂くために並ぶつもりでした。 調べるとG.Wではそれでも30分ぐらい待ったそうです。 五社巡りもG.Wなのに11時過ぎには参拝をすませれたそうなのです。
私もそのつもりでした。
が・・・。
スマホのナビが高速を降りろと言わなかったので、ひとつ行き過ぎました。 15分くらいロス。
そして「戸隠神社奥宮」と入れてたので、駐車場がわからず道の途中で 到着しましたとなりました。 そこから「戸隠神社奥宮駐車場」と入れ直し、そこから20分くらいで到着しました。
9時30分頃に駐車場に到着。(8時30分到着予定) この後全てが混雑に巻き込まれ、御朱印を頂くのに約1時間並びました。
五社巡りが完了したのは15時30分頃でした。 帰宅時間は23時頃でした。 途中30分くらい寝たのと、養老サ-ビスエリアでソ-スカツ丼を食べました。
まあまあ疲れました。腕、肩が張ってます。 御朱印帳が3冊目が終了したので、もう一冊注文しました。
話は変わりますが、 「飛騨の口碑」話をまとめてもう終わろうと毎回思うのですが、 この話だけはとついつい、まとまらず話が長くなり終わりません。 しかし、何か重要なことの気がして話を削れませんでした。
前回からの続きです。
今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。
著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。 それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。
現在の出雲大社とは関係ありません。
ニギハヤヒは大和の御諸山に降りた 飛騨王朝は日本の国を一つにまとめるべく、飛騨は山奥すぎ、さらに寒冷化で雪が 降るので大和に都を移すことに決めたのです。 大和とは飛騨からみて山の麓に位置するということで、ヤマノフモット、ヤマモットと 縮まりヤマトとなったのです。
そして天照大神は孫のニギハヤヒに将来ヤマトの都を開くための準備を命じたのです。
その頃、三つの外国勢が筑紫(九州)にきて三つ巴の戦いをしておりました。 日本の古代は末子相続制であったので天照大神は末子である孫のニニギに筑紫の 平定を命じました。
ニギハヤヒはニニギに先立って飛騨から大勢の者を引き連れて都を開くための準備に 大和へ降臨したのです。 大和はニギハヤヒが御苦労されて開拓されたところなのです。
『先代旧事本紀』にニギハヤヒはいかるがの峯に降りたとありますが、わざわざ大阪側の いかるが峯に降りるはずがなく、ニギハヤヒは御諸山に降りたのです。 いかるが峯に降りたと書いたのは後に出雲思想にかぶれた者がニギハヤヒが御諸山の 地に降りたと書くと都合が悪いのでいかるが峯と誤魔化したのです。
ニギハヤヒは大和の一等地である御諸山に住まいを構えている豪族・大和の長の 三島溝クイの娘婿に入りました。 三島溝クイは飛騨のスメラ命の家から昔分家した大事な一族の家柄です。 一族みなが心をひとつにして大和に都を開くために骨を折られたのです。
本来 三諸山はニギハヤヒの山 出雲のオオクニヌシがあちこちの女と遊んでいる頃、筑紫(九州)平定に骨を折っている ニニギを待ちながら、ニギハヤヒはひたすら将来立派な国を作るために 大勢の飛騨人とともに開拓に御苦労下さったのです。 その大和の御諸山はニギハヤヒの山なのです。
この「みもろ」とは「みむろ」のなまったもので、「むろ」とは皇室の室、天皇の いらっしゃるお屋敷のことで、漢字が入ってから「室」を当て、後にスメラのムロ・皇室 になったのです。天照大神の孫を尊んでニギハヤヒの住んだ処を敬って「み(御)」を つけて「みむろ」といい、その山を「みむろ山」「みもろ山」と呼んだのです。
ちなみに、出雲国風土記には「スサノオの御室を造らしめ給いて、宿らせるところなり。 それを御室と言う」とあり、出雲では、天照大神の弟であるスサノオの住まいを 敬って御室といったのです。
『日本書記』では崇神天皇のころは御諸山としていますが、雄略天皇のころには 三輪山と書かれており、御諸山が乗っ取られた後にニギハヤヒの室の名残を残す 御室の山、御諸山から三輪山と名前が変えられてしまいました。
今日ではニギハヤヒが消されてしまい御陵さえわからなくなっていますが、天孫の ある古老の方は「御諸山の社の少し上方にあったと聞いている」といっています。
その本来ニギハヤヒが住んだニギハヤヒの山に出雲に起きたシラギ神が祀られて いるのです。
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出雲でシラギ神崇拝教が興る |
明日、ドライブをかねて戸隠神社五社巡りの参拝をさせて頂く予定です。 所要時間は約5時間30分から6時間になりそうです。 やはり戸隠そばですかね。食べてきます。 また後日ご報告します。
前回からの続きです。
今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。
著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。 それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。
現在の出雲大社とは関係ありません。
出雲でシラギ神崇拝教が興る ホヒ殺しの大手柄を立てた英雄イソタケルと讃えられた少彦名は若くして出雲で 死んだようです。『日本書記』に「少彦名命が出雲の熊野の岬に至って、ついに 常世(長生不老の国)に行かれた・・・」とあり、常世とは死後の世界を意味し、 さらに名前の少彦名とは少年を意味していて、イソタケルこと少彦名の死は ホヒを殺してからそんなに時間が経っていなかったのではないかと思われます。
大功労者のイソタケルの死を腹違いの大勢の兄弟たちが残念がって相談しているうちに とんでもなく悪賢いことを思いついたのです。 「そうだ我らが父オオクニヌシはイソタケル神を祀る祭主である」と幽閉から神を祀る祭主にと 逆転の発想を相談したのです。
そして言いふらしたのです。 以来、今日までオオクニヌシの幽閉の事実は全く消えているのです。
ここに日本ではじめての新興宗教の「シラギ神崇拝教」が出雲の地で起こったのです。
イソタケル(少彦名)が祭神の時代が長く続きました。 イソタケルは実際にはオオクニヌシの子供ですが、オオクニヌシに祀らせるために 『日本書記』にはイソタケルはスサノオの子供であるといったり、オオクニヌシは スサノオの六代後の子孫といったりして、あたかもオオクニヌシが先祖である イソタケルを祀ったかのごとくに誤魔化して、さらにオオクニヌシが新羅の女に 生ませた子であることを隠してつじつまを合わせているのです。 そのために古代史がわからなくなってしまっているのです。
時代に合わせてウソでもなんでも都合よく言いふらし、それを盲信させて広めて いったと思われます。それが時代に合わせて教義となり、由緒となり『記紀』にも 入り込んで今日に至っていると思われます。
異をとなえるシラギ神崇拝教 『出雲大社』に「参拝者の眼に異様にうつるものは、御本殿が大社造ということは まずおいて大社のシメ縄の張り方が、世の神社とは正反対であるという事実である・・・ 出雲大社のシメの掛け方を一般に祭式専門家たちは不可解とし、ことさら出雲は 異をたてているという」とあります。
そう言って当然です。なぜなら曾の宮は古神道ではないのです。 幽閉所を曾の宮にして宗教を作った最初から「俺たちの社は日本古来の社とは違うぞ」と 異を主張しているのです。
ですから、シメ縄を堂々と反対にかけて日本の古神道ではない、ということを主張しているのです。
そして曾の宮は出雲政権を乗っ取った後のイソタケルたちの拠点であり、新宗教の拠点であり、 大和政権打倒の本拠地なのです。
ですから、この新宗教の元の社にホヒ殺し一連の事件を記念して神事にして残したのです。
そうして時代が流れて大和で歴史的大事件が起きてシラギ神が失墜し、シラギ神の イソタケルでは立ち行かなくなると、イソタケルを中央から隠すのです。 その頃になると長い時間が流れており、オオクニヌシが幽閉されていたことや女あさりの悪評も 薄らいで忘れかけられていた頃なので祭主であったオオクニヌシを祭神にすり替えたのです。 それが今日に至っていると思われます。
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大陸的なやりかた |
とうとうボルダリングシュ-ズをジムで購入してしまいました。 続けていかなければならなくなりました。面白いですけどね。 今のところ毎週土曜日に通うつもりです。
昨日、仕事帰りに行ってきました。10回目になります。
前回からの続きです。
今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。
著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。 それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。
現在の出雲大社とは関係ありません。
大陸的なやりかた 日本人は食人などと聞いただけでも身の毛がよだちます。 ホヒを殺して煮て食べた首謀者は外国から来た人たちの仕業にちがいないと考えられます。
関係のない普通の人がホヒを殺して出雲政権を狙ったのなら、大勢いるオオクニヌシの子供たちが 黙ってみているわけがありません。 水葬にして代々の国造が受け継がれたり、奇妙な神事になって受け継がれたのは それを支持する大きな背景があったからなのです。
昔は特に血筋を重んじたのです。乗っ取った出雲政権を担当できる資格がある人物は、 オオクニヌシの血をひく子供であるということが、絶対条件です。
出雲政権を奪い取ったのがオオクニヌシの子供なら誰も文句を言わないのです。 しかも釜の神事からみて首謀者は日本人ではなく外国人であったということです。
筆者はオオクニヌシが新羅の女に生ませた子供たちであると思います。 母親は新羅人で、その子は新羅でかなりの年齢まで育ったために食人の習慣を持ち、 なおかつオオクニヌシの血をひいているから、オオクニヌシの後継者になる資格を もっている人物になるのです。
オオクニヌシと少彦名那は「日本を作り固めた」「天下を作った」重要な人物として 『記紀』に書かれています。オオクニヌシは少彦名那を見て「正しく我が子にちがいない」 とオオクニヌシが返事したと書かれています。
少彦名那は『古事記』『日本書記』には天ツ神の子と誤魔化して書かれていますが、 オオクニヌシが新羅へ行っていたときに、あちらの女に生ませた子供・正しく我が子、 オオクニヌシの子供だったのです。
張本人 英雄イソタケル ホヒを殺したのは少彦名那であり尊称イソタケルでした。 タケルとは尊敬すべき英雄という意味です。イソとは新羅の曽戸茂梨(そしもり)に イたソの人という意味です。
直接ホヒに手をかけて殺して敵を取ったのは少彦名那だったのです。 その手柄でイソタケルと讃えられたのです。名前からみてもまだ少年であった と思われます。
新羅から出雲の海岸に来る人々は普通の人でも、出雲の人々の憧れの的であったのです。 (日本にはない進んだ物質文明を持っていたのです) それが日本の大勢いる息子たちがなしえなかった父オオクニヌシの敵討ちを新羅から来た 少彦名那やってのけたのです。 しかも大人が大勢いる中でまだ少年がやってのけたのですから大変なことになったのです。 イソタケルとして出雲で一躍英雄に躍り出て、褒めたたえられ、絶賛され敬われたのです。
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