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eskky28

Author:eskky28
男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
「神事」が物語るホヒの死の真相
前回からの続きです。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。

現在の出雲大社とは関係ありません。


実際に出雲に残る意味不明の神事が解説されています。

出雲大社には「古伝新嘗祭」があります。極めて異様な神事です。
それはまさに飛騨のホヒへ恐ろしい仕返しをして政権を乗っ取った、
まさに歴史をかえた瞬間のもようを神事にして残したのであろうと思えます。

表には絶対に出せないが隠された事実を、本当は大声で発表したい記念すべき
出来事を残して伝え、喜んで繰り返すうちに神事となって受け継がれたのです。

その不思議な奇怪な神事を「古伝新嘗祭」の神事が歴史的顛末を物語っているのです。


その神事は、古式にのっとり火をおこし、その火で炊いた御飯とお酒を神にお供えする
神への儀式が終わった後に行われます。しかもそれが祭の眼目であるといいます。

まず国造の座前に「海獣の皮」が敷かれます。この上に御飯とお酒をのせた膳を置きます。
ここで問題なのは、神前に汚らわしい「獣の皮」が使われるのかが、奇怪な神事です。

この獣の皮が使われることに対して、元宮司(国造)が「どうして海獣の皮が用いられるのか
分からない。神事には真菰・荒菰が諸具の下に敷かれるのが通例であるのに、このような
ものが用いられることには、何かの深い意味がひそんでいると考えられる・・・。」
と著書『出雲大社』で言っておられます。

「歯固の儀式」
神事のひとつに「歯固の儀式」あります。小石二個を土器に盛り箸を添えた膳を
「海獣の皮」の敷物の上に置きます。国造は左手に土器を持ち右手に箸を持って石を
噛みます。
「この儀式は国造の長寿を祈念して行われる」といいます。砂を噛むといいますが、
砂でも嫌なのに石では歯がこぼれてしまいます。

ままごとならいざ知らず、大人が神前で行っているのです。土器の中身が石とは
とんだふざけようです。意地悪の極みです。これほどの皮肉でも神事として行われれば
「長寿祈念」となるのでしょうか?

「茶碗に石」を入れて口先では「長寿を祈る」といい、「日本で唯一の水葬は永生」という、
うまいこという天下一品です。

「百番の舞」
これは「葉の二、三枚ついた榊の小枝に白紙をまいた物」を国造が両手に持って、
時には立って、時には座って、百度の拝礼を行う儀式です。

前の五十番は「ああああ  うんうん」、
後ろ五十番には「皇神(すめかみ)をよき日にまつりし明日よりは、あけの衣をけ衣にせん」
と神楽歌を唄う。

舞というと優雅な舞を連想しますが、百度の拝礼を行うのです。
この「百番の舞」について元宮司の千家氏は神に捧げる舞ではないことは明らかである、
と著書『出雲大社』でおっしゃっています。

『暴かれた古代史』の筆者は、オオクニヌシの子供たちにホヒが謝らされた事とみています。
榊はもともとたくさん葉がついていますが、二、三枚だけ付けるというのは、何度も謝らされて
いるうちに葉がちぎれて落ちてしまったことを意味しているのではないかと筆者は思います。

神事で唄う「明日よりは、あけの衣を、け衣にせん」の、け衣とは普段着のことです。
(『出雲大社』)
これはホヒが明日からは普段着を着ます。明日からは出雲の統治権はお譲りして
自分(ホヒ)は普段着を着て普通の人になります、と宣言しているのです。

「百番の舞」はホヒが出雲の統治の権限を剥奪されたこと、出雲が政権を乗っ取った
ことを意味し、そのときの様子を表しているのではないかと筆者は思っています。

百番の拝礼と言わないで舞と表現しているのは、ホヒは拝礼させられてフラフラになって
まるで舞を舞っているかのようになるまで詫びさせられたのでしょうか?


「釜の神事」
「百番の舞」に続いて行われるのが「釜の神事」です。
禰宜が竹の棒の前に瓶子(酒を入れるカメ)を、後ろに稲束をくくりつけたものを肩に荷い、
青竹を杖にしてその神釜(かま)の周囲を三回「あらたぬし、あらたぬし(ああ楽しい)」と
賀詞(いわい)のことばを唱えながらまわります。
国造は座って見ている、神事です。

これは神事というよりまるで宴会の風景です。
酒と御飯と釜の御馳走です。昔は最も貴重で高価であった物は米とお酒です。
貴重な酒をいっぱい飲んで、貴重な米の御飯をたらふく食べてこれ以上楽しい
愉快なことはないという宴会の様子を神事にしたものです。

さて釜の中の御馳走が何であったかが大問題なのです。
釜に入れられたのはホヒだと思うのです。
さんざん謝らせて、政権を乗っ取り、その挙句オオクニヌシの子供たちは、
ホヒを殺して、きざんで、煮て、酒を飲みながら「ああ楽しい、あらたのし」と
大ふざけしながら食べたのです。


普通の宴会なら神事にして残す必要はないのです。
神事にして残すだけの価値ある記念すべき大宴会なのです。

問題の獣の皮は殺したホヒを調理する時に敷いたのです。
草の敷物では染みて床がよごれるのです。床を汚さないために毛皮を敷いたのです。


何故そう判断するのかというと、飛騨の大昔からの言い伝えに「昔海岸へ流れ着いた
外国の者達は、日本に昔から住み着いていたおとなしい人を、まるで大根を切るように
切り刻んで食べていた。女を連れ込み妻にするのでなく乱暴した後に煮て食べた。
海端に流れ着いた者が非常に荒っぽく残虐なので、飛騨では防衛のための国(組織)
作りをして海端の守りを固めた」とあります。

千家氏は『出雲大社』のなかで「釜の神事について大庭の神魂(かもす)神社では
ホヒが天降る時に釜に乗ってきたという。したがって換言すればこの釜でホヒを招く
のであろうか」とおっしゃっていますが、天降る時に乗ってきたのは舟です。
これは釜に入っているのはホヒであるということを暗に言ってるのだと思います。


さらに食べられたと推定するのは、ホヒがどぶ池に葬られたからです。
ホヒの遺骸はすっかり食べられ骸骨ばかりが残っていて、絶対に他人に見せる
ことができなかったのです。

日本には古来から食人の習慣がありません。
なのに何故ホヒは食べられたのか?その理由はまた今度にします。


「亀太夫(かめだゆう)神事」
国造の従者が意宇(おう)の熊野大社にお供えをさしだすと、熊野の亀太夫と呼ばれる社人
から粗末な餅を調理してきては申し訳ないことではないか、と注意を受けるのです。
国造の従者はとにもかくにも、お供えして頂かなければならないから、平身低頭して先方の
言葉に逆らわないように答えます。

国造(ホヒの子孫)が熊野大社に参向しこの祭典を執行します。
国造(ホヒ)は出雲の統治者ですから熊野の社人から文句をいわれる筋合いがないのです。
それが口やかましく苦情を言い立てられる悪態祭なのです。

出雲ではお供えに対して文句をいうとは日本古来の心とは全然違う全く変わった神事です。
古神道ではないのです。

次に神魂(かもす)神社に詣でて「きよめ」をすませてから拝殿で「三十三度の祓い」を
行って昇殿する。大床では「三十三度の拝礼」をなし、内陣にすすんで「百度の拝礼」を
榊の小枝をもって行う。熊野大社と同じく神楽を唄う。

これはオオクニヌシの子供や孫のいる親戚を回って詫びを入れさせる事を意味してると
思います。終わって貴船社を拝礼します。


「神事相撲」
最後に相撲です。国造は本殿大床から見るのです。力士は鶴山と亀山で、鶴山が新国造に
お酌をしてその後相撲をとります。

出雲大社の神紋は亀甲です。海の向こうから来たことを意味していると思われます。
力士の亀山は出雲を意味しています。

国造館の裏山を鶴山といいます。鶴山は新国造にお酌をしますから、鶴は飛騨を意味し
鶴山は飛騨でありホヒであり天孫を意味しています。

この神事相撲ではどちらが勝つのか勝ち負けを言っていません。
しかし勝負はあったのです。鶴は千年で亀は万年です。亀は鶴に十倍勝っているのです。

この亀が鶴に勝った「鶴は千年、亀は万年」のこの言葉はお祝いの象徴になっているのです。
亀が鶴に勝ったことが目出度い象徴になっているのです。

深く考えることもなく今日まできたのですが亀(出雲)の万年が鶴(飛騨)千年に勝ったことを
意味していたのです。

ホヒを殺して出雲の政権を乗っ取ったこと、そして後には出雲で起こした宗教が
飛騨を中心に発達した古神道に勝ったことを意味しているのです。


それを、ホヒの子孫の新国造にしっかりと見せつけているのです。

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ホヒは殺された?
前回からの続きです。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。

現在の出雲大社とは関係ありません。


実際に出雲に残る意味不明の神事が解説されています。

オオクニヌシの子  逆恨み
オオクニヌシには妻と妾が二十数名と記録され一八一人もの子供がいるのです。
孫たちは数えきれないほどいたのです。
しかしオオクニヌシにはまだ他に隠し子がいたのです。それは新羅へ行ったときに
向こうの女に産ませた子供で、国奉還の談判の時にはまだ出雲にはいなかったのです。
オオクニヌシが幽閉された後に出雲に来たのですが、新羅で生まれた子供については
『記紀』や出雲でもひた隠しにしています。

大勢の子供や孫たちは、非はオオクニヌシとコトシロヌシにあり、なぜ国を奉還せねば
ならなくなったのかは分かっていたのです。また少し戦をして、とても勝てる相手では
なかったこともわかっていたのです。だから最初はおとなしくホヒに従っていたのです。

ところが後に新羅から来た子供たちが不服を言い出したのです。そして日本の兄弟に
焚き付けだしたのです。
そして日がたつにつれて国を奉還した事を残念がりだし、幽閉を無念がりだしたのです。

飛騨の寛大な処置に感謝することも忘れ、残念無念に思い、飛騨から派遣されたホヒの
下にいることが耐えられず、出雲を自分達の統治に取り戻したいと思うようになっていきました。
大勢の子や孫たちはオオクニヌシとコトシロヌシが後悔し反省している心を知らずに、
躍起になって残念がりだしたと思われます。

そして時期をみていました。


オオクニヌシの葬式がその時
オオクニヌシは飛騨王朝が造った床の高い幽閉所の中に閉じ込められて
すっかり観念していました。
出雲大社は普通の神社のように入口(玄関)は中央ではなく、単なる通用口
なので右寄りで十分なのです。床が高いのは逃げることができないためです。
入口から一番遠い奥(御神座)に閉じ込められて(鎮座)おり、
常時五人の役人(お客神)に見張られていたのです。

オオクニヌシは本来祭神でなく、幽閉の身なのです。
だから参拝者の方に向かってなくていいのです。

幽閉されてから十数年たったのでしょうか、オオクニヌシは幽閉所で静かに
この世を去りました。
子供たちに知らされて葬式もこっそりとひっそりと滞りなく済みました。
そして皆で会食をしていた時のことです。
ホヒが箸をとり茶碗をとって食べようとすると、なんと茶碗に石ころが入って
いるではありませんか。(神事の「歯固めの儀式」)。
驚いたホヒは「これは一体どういうことか?」「ホヒ様の長寿を祈る出雲の
しきたりです」と子供たちは美味しそうに食べたり飲んだりしているのです。

この時から、それまで従順に従っていた子供たちが急変しました。

大勢の子供たちがボロクソにホヒを罵り悪態をつきはじめました。
大勢の子供たちに取り囲まれて、剣さえチラつかせているのです。

ホヒは言われるままに、出雲を統治したこと、オオクニヌシを幽閉したことを
オオクニヌシの子供一人一人に土下座して詫びさせられました。

出雲の政権を返すことを誓わされ、何度も立ったり座ったりして頭を下げさせ
られて謝らせられました。(神事の「百番の舞」)。

オオクニヌシの子供たちに吊るしあげられたのです。


ホヒは殺された?
さんざん頭を下げて詫びさせられ、統治権を剥奪された挙句ホヒは殺されたのです。

『出雲大社』に次のような驚くべきことが書かれています。
「国造が死去すると後継者はただちに他所で神事を行う、終わった知らせが入ると、
亡くなった前国造は、赤い牛に乗せて運び出し、杵築の東南の池に水葬すること
になっていた」(出雲大社では宮司のことを国造といいます)


さらに江戸時代に書かれたものに「国造の父が死しても、その族は泣く者なく、
子は父の弔いに会うことなく、喪に服することもない」と書かれています。

ホヒの生きた時代以前から出雲に水葬の習慣があったのなら問題ありませんが、
「この水葬はホヒから始まり、代々の国造にだけ行われてきた」というのです。

これはホヒは殺されてなおかつ遺体の姿を遺族にも絶対に見せることが出来ない
状態であったから、泥池に捨てられたのです。
遺族はホヒの死を確認しないまま、死んだことを知らされたのです。

埋葬は時間がかかり、土を掘り返されて遺体を見られたら、ホヒを殺したことが
飛騨に知られて大変なことになってしまいます。

ホヒの亡骸を遺族にも誰にも絶対に見せることができないとんでもない
理由があったのです。
これについては次回にします。

絶対にバレずに早く隠すには、中が見えない泥池に捨てて沈めるのが、
最も手っ取り早い方法だったのです。慌てて始末したのです。
それを水葬とはうまく言ったものです。


本来亡骸は数人の最も近い親族が運ぶのですが、「遺骸を牛の背に乗せて運ぶ」
のです。これは大罪人に対してすることです。
オオクニヌシの子供たちにとって、ホヒは国を乗っ取った大罪人だったのです。


ホヒは出雲の統治者です。それ相応の厳粛な葬式があってしかるべきなのです。
遺族や友人は遺骸と最後の別れも出来ず、遺骸や遺骨のない葬式をしたのです。
泣くことすらできなかったと思われます。


江戸時代の記録に「出雲国造家では父死して跡継ぎが国造になっても、
その族はこのために泣く者なく、いずれも新国造の襲職を賀す、子は父に会すること
なく服忌がない」として、その不審の思いを記している。(『出雲大社』)とあります。


『出雲大社』には「墓がないのは国造は永生であるから」と書かれています。


日本で唯一の水葬は「国造は永生であるから」というのです。
あまりにも「うまい説明」に日本中がだまされて、歴史の真実を
見落としてきたと著者は思うのです。

と書かれています。

ではまた次回にいたします。

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オオクニヌシ幽閉の痕跡
7/15に日帰りで新潟県糸魚川市の天津神社と
石川県白山市の白山ひめ神社に参拝させて頂きました。
後日、記事にしたいと思います。


前回からの続きです。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。

現在の出雲大社とは関係ありません。


実際に出雲に残る意味不明の神事が解説されています。

『見逃神事』
出雲大社には見逃神事が伝えられています。

この神事は前日に道の下見をしておいて、夜中に神幸(神が出かける)の途中で
もし人に出会うと大社に戻り出直しをします。
大社町内の人もこの夜はできるだけ早くから門戸を閉ざして謹んで外出をしません。
別名、神幸祭ともいわれています。
オオクニヌシの神幸というのがこの神事の本義である。

クシヤタマ神の子孫の別火氏(べっか)がこの身逃神事を奉仕するのが本来であった。
もともと別火氏の祭であったと思われる。
クシヤタマ神とは飛騨から派遣された人で幽閉されたオオクニヌシの見張りをしながら
料理方をしていた人です。

以上、『出雲大社』に書かれています。


この神事は逃げることが出来ない床の高い幽閉所が完成したので、
オオクニヌシが仮幽閉所から高い幽閉所に移動した時の様子をあらわして
いるのではないかと思われます。
その移動を仕切ったのが飛騨からきたクシヤタマであり、子孫の別火氏の
祭りの中に「見逃神事」として残したものが、時代とともに少し変わっていったのでしょう。


つまり、オオクニヌシが幽閉所に移るまでの道のりを前もって下調べをしておいて、
さらにオオクニヌシが幽閉所まで歩いて行って入る姿を人に見られて恥を
さらさないようにするために夜中に移動し「人に出会うと出直しをする」
「大社町内の人もこの夜はできるだけ早くから門戸を閉ざして謹んで外出しない」
というほど気を使って移動した時の様子が神事になって残されていると思われます。

飛騨の配慮が十分うかがえます。

オオクニヌシの幽閉についてはクシヤタマが料理方をしたことなどとともに
飛騨に口碑としてしっかり残されています。


『爪剥祭』(つまむぎ)
見逃神事の翌日に爪剥祭があります。
この祭は古くは爪剥・ツマムギのお供えといわれていました。
塩、稲穂、瓜、茄子、根芋、大角豆(ささげ)、水の神饌を供え、
魚鳥などの生臭物を含まない精進物だけをお供えして行われます。
『出雲大社』による。

著者はオオクニヌシの爪(女癖)を剥ぐと揶揄したことが爪剥祭として
残っていると思われます。

オオクニヌシは妻子がありながら地方の豪族の女を次々と妾にしていったのです。
こうして国と国とが仲良くしていく手段に使ったのですが、結果オオクニヌシの毒牙に
ひっかかった地方豪族の娘たちが泣かされ親も娘も怒り出したのです。

オオクニヌシの色気の爪を剥ぐために魚鳥などの精力のつく食事ではなく、精進料理を
提供したのです。
早い話女狂いをして国を奉還して幽閉されたのです。


『出雲大社』に天神地祇を祀る行事の容器に他の時と違いひょうたんを切半せるものを
使用する例となっているとあり、ひょうたんを爪剥祭にとくに用いるということも、必ず
深い意味があるに違いないと書かれています。
幽閉所でのオオクニヌシの食事の器はひょうたんを切半したものを使った様子が
うかがえます。
土器はときには凶器になるのでかわりにひょうたんを使ったと思われます。


オオクニヌシは爪剥とまで揶揄されて、後々まで葦原醜男(アシハラシコオ)つまり
日本中で一番醜い男と大評判になり笑われました。

ところが大勢の女に産ませた大勢の子供たちが後にとんでもないことをしでかし、
大勢いるゆえに勝つことになるのです。


ではまた次回にいたします。

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出雲に残る不可解な神事
前回からの続きです。

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『諸手船神事 』
コトシロヌシが祀られている美保神社に諸手船神事が伝えられています。
これは飛騨の大軍が突如稲佐の浜に現れた時に、三穂の岬に行っていた
コトシロヌシを早船を出して急ぎ迎えに行ったのです。その時の様子を
表しているのです。

『青柴垣神事』
美保神社に伝えられています。これは「二艘の舟を並んで浮かべ船上には
幕で覆われた三畳ほどの囲いの中に頭人と呼ばれる人が妻、子供、神主、
巫女たちと舟の囲いの中に入って神事が行われ、終わると舟から顔を
隠して降りてくる」というものです。

これは一体何を意味しているかといいますと、
「出雲を飛騨に奉還し、オオクニヌシとコトシロヌシは別々の場所で
幽閉される」ことに決まり、親子がもう二度と会うことができないために、
親夫婦と子供夫婦だけで最後の別れをするために、船上の一角を
幕で囲って、他からは見えないようにセットしてあげたという
飛騨の温情であったのです。

飛騨を裏切ったとはいえ、オオクニヌシは出雲の意宇の国の統治者なのです。
ヒルメムチ命(天照大神)の甥なのです。
オオクニヌシ夫婦とコトシロヌシ夫婦が最後の別れを告げて陸へあがるとき、
飛騨の配慮で誰かわからぬように変装し顔を隠して人前で恥をかかせぬように
してあげたのです。
飛騨は敗者の王に対して礼節をつくしたのです。これが日本の精神性なのです。
その時の様子が神事となって残り、今でも舟から降りてくる巫女が顔を隠して
いるのです。

こうしてオオクニヌシは、飛騨の大軍が見守るなかで国奉還の談判に使われた
にわか造りの小屋を「仮幽閉所」にして、コトシロヌシは青柴垣の中の幽閉先に
送られたのです。


こうして出雲はオオクニヌシにかわってホヒの統治がはじまりました。
そして飛騨の大軍はわずかの兵士を見張りに残して飛騨へ帰っていきました。

飛騨王朝はこのすぐ後に筑紫平定という大仕事がひかえているため、
出雲を信じてホヒを守るための軍を出雲に残すことができなかったのです。

ホヒの統治が数年続きましたが、飛騨の寛大な配慮が逆手にとられ、
出雲につけいられることになってしまうのです。


ではまた次回にいたします。

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『暴かれた古代史』その5
西日本豪雨災害で、亡くなられた方々に衷心よりお悔やみを申し上げます。
被害に遭われた全ての方々にお見舞いを申し上げます。

日本は災害大国なので、公共工事(災害対策、インフラ整備、耐震工事、老朽化対策など)
を増やし、長期の計画を立て適正価格で予算を組み、建設業者が人材確保や設備投資を
しやすくしていかなければならないと思います。

なんでもかんでも価格競争させるのではなく、ある程度の談合は許容していかなければならない
と思います。企業が疲弊してしまいますし、手抜き工事も生まれやすくなると思います。


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談判が行われた仮小屋が後に「仮の宮」
出雲大社から稲佐の浜への道を真っ直ぐに西へいくと道は砂丘の小さな峠に
さしかかり、この峠にささやかな「仮の宮」があります。

『出雲大社』(千家尊統著)に陰暦十月の神有祭には全国の神々が出雲に
参集するがそのときの神議り(かむはかり)の事の行われるのは、実に
このささやかな「仮の宮」であると書かれています。

全国から集まった神々が行う「神議り」の場所が、ささやかな「仮の宮」で
行われるとは一体何を意味しているのでしょうか?


『古事記』にいう国奉還の話し合いが行われた伊那佐の小浜(おばま)とは
現在の稲佐の浜のことです。

飛騨から行った大軍はその浜に簡単な建物を造り、その中で国奉還の話合いを
おこなったと思われます。その時の粗末な建物を「仮の宮」とし、朽ちれば同じように
作り変えて残したと思われます。
それがはからずも真実の歴史を物語っているのではないかと思います。

『記紀』には国奉還の事実をぼかしてありますが、出雲の現地では、国が奉還に
至った話し合いをしたであろう建物まで「仮の宮」として保存してあるのです。

出雲ではさらに現実にあったことそのままを忠実に神事の形で残しているために
奇しくも真実の歴史が残されていたのです。

そのことに気が付くまで長い時間がかかりました。


ここから先の話は、実際に出雲に残る意味不明の神事の意味を著者が
分かりやすく解説していきます。
事実かどうかは分かりませんが、私が大変驚き恐怖し、いまだにモヤモヤが
残る話になっていきます。

前置きが長くなりましたが、重要な背景だと思いましたので省略しませんでした。



「諸手船神事 』 美保神社   コトシロヌシがまつられています
「青柴垣神事」

「身逃神事」    出雲大社
「爪剥祭」

「出雲国造の葬式は水葬が伝統」

『古伝新嘗祭』   出雲大社
「歯固の儀式」  
「百番の舞」
「釜の神事」
「亀太夫神事」
「神事相撲」

以上の神事の解説されてる部分を紹介していきます。

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『暴かれた古代史』その4
サッカ-W杯ロシア大会
対ベルギ-戦(FIFAランキング3位)、めちゃくちゃおしかったですね。
日本代表の皆様、お疲れ様でした。

日本代表が使用していたロッカ-ル-ムが
キレイに清掃され、ロシア語で「ありがとう」と書かれた
置き手紙を置いてある写真が現地スタッフにより
掲載されていたそうです。
「他の国も日本を見習うべきだ」とつぶやいていたそうです。

今回だけでなく毎回とのことです。
プレ-もですが、すごく誇らしいです。


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「譲るとお返し」

『古事記』には国譲りと書かれ、『日本書記』は国を奉ると書かれています。
日本の多くの人達は「出雲は高天原に国を譲った」と思っていることでしょう。

ところが『出雲大社由緒記』に「大神(オオクニヌシ)は辛苦御経営になった国土を
皇孫におかえしになり」と書かれているではありませんか。

さらに同じく『出雲大社由緒記』に「大国主大神は、御辛苦経営なさった豊葦原瑞穂国
(古代日本の美称)を、やがて天照大神に奉還になって」とあり、また「平穏のうちに
大神がこの国土を皇孫に奉還なさる」と書かれているではありませんか。

国を譲ったと書かず、かえした奉還した、とあるのです。

「譲った」と「返した、奉還した」とでは本来の所有者が全く異なるのです。


オオクニヌシの国が高天原のものになるという重大な事件なのに、何故なのか理由
がまったく書かれていません。

『古事記』には、譲ったにしろ、奉還したにしろその相手の国の名が高天原と
書いてあるだけで、高天原とはどこの国なのかを書いていません。

『日本書記』にも相手の国がどこなのかを全然書いていないのです。
お金や品物の話ではなく、国、一国なのにです。

オオクニヌシが父スサノオから受け継ぎ、コトシロヌシに受け継ぐ国なのです。

国を失う最重要問題について、失う理由も、その相手の国も書かずに、
コトシロヌシに急いで知らせたことなどについて書かれているだけなのです。


この歴史の最も重要なことを『記紀』は隠しているのです。
わざと書いていないのです。


「円満に談判」

出雲はもともと天照大神の先祖の代に親戚が開拓した飛騨国の分家の国であり
最初から飛騨国の一部だったのです。それが出雲の意宇国(おう国)です。


圧倒的な飛騨の大軍にはかなわず、出雲の軍隊が散ってしまい、
取り残されたオオクニヌシとコトシロヌシは静かに話し合いに応じる以外に
生きる道がありませんでした。

交渉は穏やかに進められ
一  オオクニヌシは出雲の統治権を飛騨におかえしする。
    そして出雲はヒルメムチ命(天照大神)の子ホヒが治める。
二  オオクニヌシとコトシロヌシを幽閉する。
三  かねてから約束してあったオオクニヌシの弟二人とタギリ姫の
    二人の妹の縁談は約束どおり進める。
ということで決着しました。

オオクニヌシは逃げることができないように床の高い幽閉所を造り、
コトシロヌシは周りを青柴の垣で高く囲って幽閉されることに決まりました。


談判というと激しいやりとりがあったかのようなイメ-ジをうけますが、
穏やかに話し合いがなされて円満に解決したのです。


ところがこの温情ある寛大な処置も長くはもたず、恩も義理もわきまえぬ連中に
踏みにじられてしまうことになるのです。

前置き長いですが、まだまだ続きます。次回にします。


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『暴かれた古代史』その3
前回からの続きです。

今からご紹介する『暴かれた古代史』は「飛騨の口碑」にもとづいて全国を調査して書かれた本です。

著者山本建造氏が飛騨の若田翁から、先祖代々からの言い伝えを託されました。
それは飛騨の古代史ですが、大和朝廷以前の歴史であり日本の古代史でもありました。

現在の出雲大社とは関係ありません。


「飛騨は大軍を率いて出雲に」

飛騨と出雲が仲良くしていくためにヒルメムチ命(天照大神)は
息子のクマノムスビを婿にやり、タギリ姫を嫁にやったのです。

そのクマノムスビは出雲で変死し、タギリ姫は子供を出雲に残して
逃げ帰ったのです。

飛騨王朝は出雲へヒルメムチ命(天照大神)の息子のホヒを
使者として送りましたが、三年たっても帰らず、次に若彦を
送りましたが八年たっても帰ってこなかったのです。

談判の相手のオオクニヌシが出雲にいないため会えなかったのです。

後からわかつたのがオオクニヌシは朝鮮半島の新羅に行っていたのです。

ホヒは出雲でオオクニヌシに実際には会えなかったのに『古事記』には媚びたからであるとウソが書かれています。

飛騨では築紫平定を急がねばならす、その前に出雲と決着をつけておく必要があるので、最後にやむなく使者に大軍をつけて出雲へ送ったのです。

出雲にはすでにヒルメムチ命(天照大神)の息子のホヒが行ってるので、ホヒを総大将にして圧倒的な大軍を背景に浜辺で交渉が行われたのです。


『古事記』では国奉還の談判は伊耶佐の浜でおこなわれたとあります。

飛騨からの使者は十拳剣を波の上に切っ尖を立てて、その上に胡座をかいてオオクニヌシに言ったと書かれいますが剣の先に座れるはずがなく、飛騨は
大軍を背景にしてゆうゆうと大きな態度で交渉したことをお伽話化したのです。

『日本書記』でも五十田狭(いたさ)の小浜に降りられて剣の先に座ったと書いて、『古事記』同様に
お伽話化して誤魔化しています。


さらにオオクニヌシが立ち上がれば諸神が味方して戦いに勝つことができるが敢えて戦わないのだ、
オオクニヌシが身を引けば誰も戦わないと、実際には飛騨の大軍に太刀打ちできなかったのに、いかにもオオクニヌシが勝てるのに身を引いたと言わんばかりに書かれています。


さらにオオクニヌシの別命の一つに八千矛(やちほこ)神があり、大軍の将を誇っていますが、飛騨の
大軍に手も足もでないほんの小さな軍隊しか持って
いなかったのです。

八千矛神とは飛騨の将であるホヒにこそつけるべきです。
後にオオクニヌシを美化するために八千矛神の名を取ってしまい、今では堂々とオオクニヌシの別命になっているのです。


前置き長いですが、続きは次回で。


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