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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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真清田神社(尾張国一宮)へ参拝(愛知) |
平成二十九年 十二月十七日参拝
今回は真清田神社(尾張国一宮)へ参拝させて頂きました。 愛知県一宮市真清田1-2-1にある神社です。 駐車場は無料で15台ぐらい停めれたような気がします。 記憶が薄いですが・・・。 大阪から約2時間30分から3時間だった気がします。 行きの途中三重県で雪が結構降ってきて、帰りが心配になりましたが全く大丈夫でした。
今回も珍しく家族で参拝致しました。 なぜかというと、私以外の家族(嫁さん、息子、娘)はなんと『嵐』のコンサートに 抽選で当たり、その運転手として一緒に行きました。 当然、私は神社巡りが目的です。
せっかく家族一緒なので、尾張の一宮を参拝してから 名古屋ド-ムに送ることにしました。 真清田神社→名古屋ド-ム→熱田神宮 コンサ-ト終わりにみんなを拾って、ご当地グルメをいただきます。 「矢場とん」というとんかつです。 私は赤味噌もすきなのですが、家族には不評で 普通のトンカツがいいとのことでした。
てっきり尾張の一宮は熱田神宮だと思い込んでいました。 ネットで調べると真清田神社(ますみだじんじゃ)が出てきて、 読み方も分かりませんでした(笑)
境内には、井戸を覗いて自分の顔を写し健康、家内安全を祈る「神水舎」や 縁結びに御利益があるという「服織(はとり)神社」、 願いを念じ石を持ち上げてみて軽いと感じると叶う「おもかる石」など、いろんなスポットがあります。 写真を撮っていませんでした。ガックリです。 このときはまだ写真を撮る習慣があまりなかったです。 今はなるべく撮るようにしていますが、ピンぼけや構図がへたすぎますね。 上達していきたいと思います。
個人的には本殿を写真に撮ったりするのをやめています。 (境内は写真撮影禁止にされていたりするところもありますし、神様の降りられる神聖なところなので) 少し違いますが、自分の家に他人が黙って入ってきて、パシャパシャと写真撮りまくられると 思うと撮ったらダメだと思いました。
禁止されているところは別として、写真に撮りたくなってしまいますので、 私は鳥居をくぐるときに、心の中で名前を言って一礼し、 先に参拝をすませ、写真を撮らせて下さいとお願いしてから撮るようにしています。 今のところできるだけ本殿は撮らないようにしています。
でもよく取り忘れが出てきますが・・・。 自分勝手ですが、参拝順で同じ道を通らない場合は先に撮らせて頂いています。
【真清田神社 鳥居】
【真清田神社 楼門】
【真清田神社 手水舎】
【真清田神社 拝殿】
【真清田神社 御朱印】
【御祭神】 天火明命(あめのほあかりのみこと) 【摂社(別宮)】 「三明神社」 往古「三明印珠宮」とも称され、当社の四所別宮のなかで最も重視された第一別宮とされている。 祭神は本宮の荒魂(あらみたま)で、平成五年三月二十五日、古くからの由緒に基づき御本殿裏に再建された。 「神明社」 本社玉垣の東側に鎮座している。祭神は天照大神のほか大正元年十一月楼門前東側に鎮座していた 摂社八幡社祭神の品陀和気命を奉祀している。 【創建】 (一伝)初代神武天皇33年 (一伝)第10代崇神天皇年間 【ご由緒】 創建は詳らかでないが、古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、 尾張氏祖神の天火明命を祭神としています。 中世には尾張国の一宮に位置づけられ、一帯の地名「一宮」は この真清田神社の社格に由来するといいます。
鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。 流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。 一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。 今でこそ、繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は、 木曽川の灌漑用水による水田地帯として、 清く澄んだ水によって水田を形成していたため、 真清田(ますみだ)と名付けられたといわれています。
平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、 尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。 鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。 その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
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天の岩戸神社を参拝(京都) |
平成三十年 四月一日参拝
今回は元伊勢三社の三社目になる天の岩戸神社を参拝させて頂きました。 元伊勢内宮 皇大神社の奥宮とされています。
元伊勢内宮 皇大神社の脇道から歩いて5~10分下っていったら 天の岩戸神社があります。 社務所はまだ15時過ぎでしたがしまっていました。
拝殿は崖の上にあり、鎖を持ちながら登ります。 どんくさくなってきているので、少し怖かったです。特に下りがです。
皇大神社を訪れた際にぜひ見てほしいのが皇大神社の神体山です。 岩戸山は城山や日室ヶ嶽とも呼ばれ、 標高427mの美しい三角形が特徴的な御神体山です。 岩戸山は神が降臨したとして、古くから禁足地とされています。 その均整のとれた形から「日本一美しいピラミッド」と呼ばれてるそうです。
霊峰独特の畏れ多さを感じることができる存在感があります。 私も「これはピラミッドだな」と、本気で思いました。
「元伊勢内宮・皇大神社」から次の天岩戸神社へ歩いて行く途中にある、 日室ヶ嶽の遥拝所で御神体山の岩戸山(日室ヶ嶽)を参拝します。 ここは願いが一つ叶うという、一願成就の遥拝所でもあります。
夏至の日には遙拝所から岩戸山山頂に太陽が沈む 神秘的な光景が見られるそうです。 一方、冬至の日には伊勢神宮の内宮外宮と皇大神社、 岩戸山が一直線に日の出のラインがつながるそうです。 冬至の日に元伊勢の皇大神社と伊勢神宮の皇大神宮が 繋がっているということですね。
なんか色々と深いですね。
伊勢にある天の岩戸も参拝したことがあるのですが、 ここにある天の岩戸のほうがスケ-ルが大きく もしかして神話の場所?かもしれないと思いました。
【日室ヶ嶽の遥拝所】
【天の岩戸神社 鳥居】
【岩戸山の看板】
【天の岩戸神社 拝殿】
【天の岩戸神社 拝殿ズーム】
【天の岩戸神社 拝殿そばの岩戸?】 【御祭神】 櫛御毛奴命 または、櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命の2神とも言われているそうです。 【創建】 不詳 【岩戸神社の記】 偉大な祖神である天照大御神は速須佐之男命の 乱暴な行いに堪え忍んでおられたが とうとう我慢しきれずに天の岩戸に閉じ籠りになられた。 それでこの世の中は真暗くなってしまい悪い事ばかりが連続して起こり 拾収がつかな くなってしまったので 八百万神々は天安河 原に集まられ相談された。 そこで天の岩戸の前で長鳴鳥を鳴かせ 真榊の木に勾玉を飾り御神鏡をかかげ 御幣 を持ち神饌物を捧げて 賑やかに歌い踊り音楽し祝詞を申し上げた。 この時尊い天照大御神は外の様子を不思 議に思われ天の岩戸を細めに開いて見られ たので 御神鏡をさし出し申した。 畏い天照 大御神はますます変だと思われすこし天の岩 戸から出られたところを お引出し申したので 世の中は明るくなり救われたのである。 さてこの由緒ある御神鏡が神宝と信じられ救世平和神とされている
引用元:境内説明版
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元伊勢内宮 皇大神社へ参拝(京都) |
平成三十年 四月一日参拝
今回は、『元伊勢内宮 皇大神社』に参拝させて頂きました。
京都府福知山市大江町内宮217にあります。 所在地の住所が内宮となっています。 元伊勢三社と総称される、「元伊勢外宮・豊受大神社」「元伊勢内宮・皇大神社」「天岩戸神社」 の「元伊勢内宮・皇大神社」をご紹介します。
所要時間は車で 比沼麻奈為神社(元外宮)→元伊勢外宮 豊受大神社まで約60~70分だった気がします。 元伊勢外宮 豊受大神社→元伊勢内宮 皇大神社まで約15分~20分だったと思います。
駐車場は10台くらい停めれます。 料金は500円と書いてありましたが、無人でお金を入れるところも見当たらなかったので、 勝手に無料だと思いました。 その分お賽銭を奮発すればよいのです(笑)
伊勢神宮ですが、実は伊勢に鎮座するまでの約90年間、候補地探しが行われていました。 その候補の一つであったと伝承されているのが、京都府福知山市の元伊勢です。 社伝によれば、天照大神が倭の笠縫邑から遷座したと伝えられており、それによって「元伊勢」と称されています。
御祭神は天照大御神で、一時、天照大御神の神鏡が4年間祀られていました。 その54年後に、伊勢神宮が三重県伊勢市へと落ち着くこととなります。
2000年以上もの歴史があり、元伊勢伝承地といえば地元でまずココを指します。 驚くことに、元伊勢と呼ばれるだけあってそこはお伊勢さんと符合することがあります。 近くに「二俣」という地名や五十鈴川があったり、宇治橋、宮川、真名井ノ池、猿田彦神社など 伊勢神宮にまつわる名称が数多くあります。
また、神体山である「岩戸山(日室ヶ嶽)」は幾何学的な美しさを誇る山であり、一説にはピラミッドと言われています。 そのほか「麻呂子親王が鬼退治の際に勧請した」「源頼光が酒呑童子討伐の前に参拝した」などの伝承もあるようです。
元伊勢外宮よりも境内は広く、約300メートル延びる参道を歩いて本殿へ行きます。 大江の鬼退治に向かった麻呂子親王(聖徳太子の御弟)が自ら植えた杉と伝わります。 この参道にあるご神木は「癌封じの樹」とも呼ばれており、触れると病気を吸い取ってくれると伝わります。 杉木立と玉砂利の道が、伊勢神宮の参道を思い起こさせる空間です。
こちらにも、希少な黒木鳥居があります。正面の鳥居は黒木で、皮つきの杉の木、古式といい、 元伊勢外宮 豊受大神社、京都嵯峨野の野々宮神社以外には例がないといわれる。
境内には、推定樹齢2000年といわれる たいへん立派な御神木・龍灯の杉が佇んでいて、その悠久の年月を感じることができます。 毎年節分の夜に龍神が木の先端に明かりを灯しにくる伝説から龍燈の杉という名が付けられたそうです。 一度、火災に見舞われましたが、現在でも枯れることなく半分ほどは生きているそうです。 すごい生命力ですね~!
写真を撮り忘れましたが、こちらも外宮同様に本殿を囲むように小さい境内社の摂社、末社がズラ-と並びます。 境内社社殿の大きさ・規模を見ると栲機千千姫神社、天手力雄神社、熊野神社、興玉神社は別格のようです。 全国の一宮などもありました。 『神社名鑑』には末社八十一社とあるようです。
境内には境内社の他に、へそ塚や和泉式部歌塚などもありました。
元伊勢内宮・皇大神社の本殿は木が新しく綺麗でした。
御朱印を頂くときに、日付けを間違えられたので御朱印代を 結構ですと受け取って下さらなかったので、御由緒書を購入致しました。 記憶には残りますので、何かのご縁ですかね。
参道横の末社の御門神社(元伊勢の厄神さん)、金のなる石も、拝殿のお詣りをすませてから 帰りにお詣りしようと思っていたのですが、 次の天の岩戸神社からの帰り道を変えたのでそのまま帰ってしまいました。
また参拝させて頂きます。
【元伊勢内宮・皇大神社 社号碑】
【元伊勢内宮・皇大神社 第一鳥居】
【元伊勢内宮・皇大神社 麻呂子親王御手植杉(癌封じの樹)】
【元伊勢内宮・皇大神社 真名井の池】
【元伊勢内宮・皇大神社 大木の中の木】
【元伊勢内宮・皇大神社 御神木の龍燈の杉】
【元伊勢内宮・皇大神社 第ニ鳥居の黒木鳥居】
【元伊勢内宮・皇大神社 苔庭・さざれ石】
【元伊勢内宮・皇大神社 へそ塚や和泉式部歌塚】
【元伊勢内宮・皇大神社 岩長姫命社】
【天龍八岐龍神社】
【元伊勢内宮・皇大神社 御朱印】 日付けを間違えておられました、四月一日です 【御祭神】 天照大神 【摂社(脇宮)】 天手力男命、栲幡干々姫命 【創建】 年代不詳(伝)崇神天皇39年(紀元前五十九年) 【ご由緒】 第十代崇神天皇三十九年(紀元前五十九年)に「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との 皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鍬入姫命御杖代となり給い、 それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御されたのが、 いま(平成二年)を去る二千四十九年の遙かな昔であった。 そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸になり、 その由緒により当社が創建されたと伝えられている。 皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、諸所(二十余か所)を経て、 五十四年後の第十一代垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川上(いまの伊勢神宮)に 永遠に御鎮座になった。 しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、ひき続いて当社は 伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰が続いている。
境内掲示板より
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元伊勢外宮 豊受大神社(京都)へ参拝 |
平成三十年 四月一日参拝させて頂きました。
『元伊勢外宮 豊受大神社』へ参拝させて頂きました。
京都府福知山市大江町天田内東平にあります。 豊受姫命は、雄略天皇の時に丹波国から遷宮して伊勢神宮外宮に祀られたとされる。 当社はその元伊勢伝承地の1つで、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮であるとの伝承から、 「元伊勢外宮」とも称される。 市内大江地域には当社の他にも 「元伊勢内宮 皇大神社」 「天の岩戸神社」 の元伊勢伝承の神社があり、 総称して「元伊勢三社」と呼ばれています。
元伊勢外宮 豊受大神社には、 無料で20台ぐらい停めれる駐車場がありました。 少し長い階段を上るとお手水舎があり、そこで清めて鳥居をくぐります。
私は知らなかったのですが、ここの鳥居は黒木の鳥居と言いまして、 鳥居は樹皮がついたままの「黒木鳥居」で、古代の鳥居の形式を 伝えているとのことで大変珍しいとのことです。
【鳥居の小話】 鳥居は、神さまが住む世界と人が住む世界を区切る目印のようなものです。 「ここからは神さまの聖域ですよ」ということを示す一種の門、あるいは「結界」という考え方もあります。 こちらも狛犬と同様、起源はよく分かっていません。 ちなみに鳥居は、1基、2基……と数えるそうです!
鳥居は大きく分けると、神明(しんめい)系と明神(みょうじん)系の2つに分けることができます。 またその中でも数多くのバリエーションがあります。
【神明系鳥居】 簡単なつくりで、縦と横の木が直線的に交わっているのが神明系の特徴だそう。 最上部の笠木、笠木と水平に配置される貫、柱のいずれもが円系になっているものが多いです。 また神明系の中にもいくつかの種類があります。 神明系の鳥居の中には、樹皮のある生木を使った「黒木鳥居」という種類もあり、とても珍しいとされています。 この鳥居と出会えたらレアということですかね!
【明神系鳥居】 神明系より飾りが多く、曲線的なつくりが明神系の特徴だそうです。 最上部の笠木が反っています。 明神系もいくつかの種類に分けられますが、鳥居を3基合わせ、3本の八角形の柱と三角形の構造をした 「三柱鳥居(みつばしら鳥居)」は、とても珍しい明神系の一種です。
鳥居は大きく前述した2つの種類に分けられ、さらに細かく分類されますが「神明系」は柱が地面に対して直角、 「明神系」は一定の角度(転び)を保つものが多いようです。
話を「元伊勢外宮 豊受大神社」に戻します。
境内中央に拝殿があり、後方に茅葺神明造の本殿。 拝殿の左右には、別宮の多賀之宮と土之宮が祀られています。 本社社殿を取り巻くように、境内の左右・後方に境内社が並んでいます。
正面に本殿、左右に脇宮、周りに末社三七社が並び、内宮の皇大神社(内宮)とほぼ同じ配置であるとのことです。 「丹後旧事記」に別宮と記される多賀神社・月読宮・土之神社・風之宮があります。
全体的にあまり参拝者は少なく、拝殿や末社も閉じられていて、 まるで現在はつかわれていない寂しい感じがしました。
拝殿裏にある本殿はかなり傷んでいました。明治7年(1874年)の造替ですもんね。
【元伊勢 外宮豊受大神社の社号石碑】
【元伊勢 外宮豊受大神社の参道階段】
【元伊勢 外宮豊受大神社の手水舎】
【元伊勢 外宮豊受大神社の黒木鳥居】
【元伊勢 外宮豊受大神社の拝殿】
【元伊勢 外宮豊受大神社の境内社】
【元伊勢 外宮豊受大神社の御朱印】
【御祭神】 豊受大神 【相殿】 日子番能迩迩芸尊・天児屋根命・天太玉命 【創建】 年代不詳(伝)雄略天皇22年 【ご由緒】 かつては60年に1度の式年遷宮が行われていたという。 現在の本殿は明治7年(1874年)の造替。
延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇が天照坐皇太神の夢託を蒙り、 御饌都神(みけつかみ)として等由気太神(豊受大神)を丹波国から伊勢に迎えたのが外宮であると記す。 それに基づいて当神社は雄略天皇22年に伊勢へ遷座したその故地であるという(『丹後風土記』)。 あるいは、元鎮座地は比沼麻奈為神社(現京丹後市峰山町久次に鎮座)であるが、 雄略天皇22年に伊勢へ遷座する途中で当神社の地にしばらく鎮座し、 その跡地に建立したものであるともいう(『加佐郡誌』)。 また、それとは別に、用明天皇の第3皇子である麻呂子親王が当地の鬼を退治するに際して、 内宮(現皇大神社)とともに勧請したものであるとの異伝もある(宝暦11年(1761年)の『丹後州宮津府志』
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比沼麻奈為神社(元外宮)(京都)へ参拝 |
平成三十年 四月一日参拝
比沼麻奈為神社(元外宮)へ参拝させて頂きました。
この日は籠神社→眞名井神社(奥宮)→比沼麻奈為神社(元外宮)→元伊勢外宮 豊受大神社→元伊勢内宮 皇大神社 →天の岩戸神社と参拝させて頂きました。
元伊勢外宮 豊受大神社、元伊勢内宮 皇大神社、天の岩戸神社は福地山市大江町の元伊勢三社と呼ばれています。 今回は参拝前日に偶然ネットで見つけた『比沼麻奈為神社(元外宮)』についてご紹介いたします。
『比沼麻奈為神社(元外宮)』 京都府京丹後市峰山町久次にある神社です。 『延喜式神名帳』にある「比沼麻奈為神社(丹後国・丹波郡)」に比定される式内社(小社)の論社。 近代社格では村社。 籠神社から車で30分ほどで着いたと思います。無料駐車場も4台ほど停めることができそうでした。
駐車しているとちょうど宮司さんが境内から出てこられるところでした。 どこから来たのかと声をかけられて、神社の由来や町名のことなど丁寧に説明して下さりました。 元伊勢と名乗る神社はたくさんあるけど、伊勢神宮の書物に書かれていたのは 「比沼麻奈為神社」だけであるといっていました。他は自ら名乗っているとのことでした。
参拝をすませ御朱印を頂いたあと、先程の話の続きで丹後は古い古墳が多くあり 大和の古墳とは種類が違うとおっしゃっていました。 (私も本で読んだことがあり知っていました)
日本海側は四隅突出型古墳、大和は前方後円墳であり、 日本海側の古墳のほうが古く、違う民族ではないかとおっしゃっていました。
そして出雲もおもしろいよと勧めてくださりました。 丹後とつながりがあるようなことを、おっしゃっていたような気がします。
小さな神社で参拝者は私一人だけでした。 しかしきれいに玉砂利が敷かれた境内で、参道をホウキで掃く向きと角度をそろえていて 日本庭園のように凄く綺麗に整備されていました。 さらに両側に幾段もの土盛りをして御幣で囲んでありました。
『止由気宮儀式帳』にある「比治真奈井」、『倭姫命世記』にある 「与佐之小見比治之魚井原(与謝郡比冶山頂麻奈井原)」に比定される、候補地の一つ。
つまり伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)の起源で元宮の可能性がある。 元伊勢の一つ。
主祭神も豊受大神と、外宮と同じ。瓊瓊杵尊、天児屋根命を配祀する。社殿は伊勢神宮と同じ神明造り。 磯砂山に天降った天女神が豊受媛神とされる。関連して、羽衣伝説が残る。
式内社「比沼麻奈為神社」の論社としては、峰山町鱒留に藤社神社があり、藤社神社も古くから豊受大神を祀る、 「比治真奈井」の候補の一つ。
「比治真奈井」の候補は他に、京丹後市の奈具神社、宮津市の奈具神社、真名井神社、 福知山市の豊受大神社がある。 豊受大神社は式内論社でもある。
境内には頌徳碑が建てられている。
明治33年(1900年)、東京大学の栗田寛博士の撰文によるもので、「崇神天皇御世39年に豊受大神の鎮座したことは明らかで、伊勢神宮豊受宮の古本宮であることは紛れもない」と書かれ「このことを証明し、大勢の人に、豊受大神の幸ます稲の千秋の後までも知らしめんとするものである」としている。
【「比治」か「比沼」か?】
比沼麻奈為神社を現代読みで「ひぬままない」と読ませている。 沼は万葉仮名で「ヌ」「ノ」の接続語を意味するかなのひとつであり、但馬国にも古くは黄沼前と書いて 「きのさき、今の城崎」、狭沼郷は「さの・今の佐野」と読む。 しかし、この場合は、延喜式神名帳には、比沼麻奈為神社の振り仮名を「ヒチノマナヰ」としている。 したがって、伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』記載時に、「比治」を「比沼」と書き間違えたか、 延喜式記載時かはわからないが、「比治」を「比沼」と書き違えたのではないかと思う。
久次岳の南に旧熊野郡と旧丹波郡(中郡)の境となる比治山峠がある。 この神社が元々あったのは比治山山頂。 比沼麻奈為神社をヒノマナイではなく「ヒチノマナヰ」としている。
【伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)】 雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、 丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、 等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、 丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。 即ち、元々は丹波の神ということになる。
【『丹後国風土記』逸文】 奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。 丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていたが、 うち1人の羽衣を老夫婦が隠してしまったので天に帰れなくなった。 そのためその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出されてしまい、 あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった。 この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。
比沼麻奈為神社のある京丹後市峰山町には、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、 籾種をつけた清水戸(せいすいど)がある。 これがこの地が田庭と呼ばれるようになった起源とされ、田場、丹波へと変遷し、 丹波、但馬の地名の起源であるという説がある。
久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。 また、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラが残っており、 これが神社の縁起とも言われている。 天橋立の真名井神社は久次嶽山頂、大饗石、比沼麻奈為神社境内、 大宮賣神社を結ぶ一直線上に位置しており、関連性は濃厚であると考えられる。
【比沼麻奈為神社 第一の鳥居】
【比沼麻奈為神社 手水舎】
【比沼麻奈為神社 第ニの鳥居】
【比沼麻奈為神社 拝殿】
【社日塔 五角塔】
【比沼麻奈為神社 御朱印】
【御祭神】 豊受大神 瓊瓊杵尊 天児屋根命 天太玉命 【創建】 年代不詳(神代)崇神天皇39年創祀 【ご由緒】 伊勢外宮の本地とされる古社である。 天照大神が吉佐宮へ御遷幸の崇神天皇39年創祀と伝えられ、雄略天皇22年、天照大神の御神託により伊勢度会宮に遷座されたとき、御分靈を奉祀したといわれている。
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眞名井神社その2 |
籠神社の先代宮司である海部穀定(あまべ よしさだ)氏は、著書『元初の最高神と大和朝廷の始元』 (桜楓社刊)の「まえがき」でこう述べているそうです。 (神社でしか販売されていないそうなので、次回購入したいと思います) 『日本の上古史に、元初の神(天地開闢のはじめの神)として、その名が記されているのは、 古事記によると、天之御中主神であり、日本書紀によると、国常立尊である。 尤も、次に、高皇産霊尊、神皇産霊尊、或は、国狭槌尊などの名が見え、 解釈によっては、之等の神々も、元初の神といえもするし、また、それに相違ないが、 ここにいう元初の神とは、最初の一神を指してのことである。 書紀の一書には、これを、ウマシアシカビヒコヂノ尊と云い、又、天之常立尊とも云っており、 旧事本紀には、別に、これに該当する神名も見える。 (中略) 一般神社のうちには、これらの神々をお祭りしているところが極めて少なく、 容易に発見することが困難であるとさえ云える状態にあるのは、何故であろうか。 社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、 神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという』
「真名」(マナ)は、エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイ半島の荒野で食べた 「天からのパン」の名に由来する、と言われています。 かつて籠神社では新しい宮司の襲名式において、黄金でできた「真名之壺」を神殿から出してきて、 金粉を削り、杯に入れて飲む、と言う儀式があったと言われます。 マナを保存した壺は、古代イスラエルの幕屋や神殿の至聖所で、契約の箱に入れてありました。 それが真名井神社にある、あるいは、そこから伊勢神宮の外宮に移された、と言われています。
その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、 天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとされています。
伊雑宮(イザワノミヤ)、(伊勢神宮の元宮伊勢神宮(三重)、鞍馬寺(京都)、籠神社(丹後半島天橋立)は 全て六芒星に関係があり、それらはほぼ北西に一直線に並んでいるそうです。 どういう意味があるかはわかりませんが・・・・。
そして伊勢神宮の外宮、熊野本宮大社、いざなぎ神宮、元伊勢・外宮豊受大神社、、多賀大社(伊吹山)を 線でつなぐと五芒星になるといわれています。 ネットで拝見しました。
五芒星は、陰陽道では魔除けの呪符として伝えられています。 印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、 木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克を表したものであり、 五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝されたといわれています。
日本の平安時代の陰陽師、安倍晴明は五行の象徴として、五芒星の紋を用いたとのことです。 「安倍晴明判(あべのせいめいばん)」や「晴明九字(せいめいくじ)」とも言い、 キキョウの花を図案化した桔梗紋の変形として、「晴明桔梗(せいめいききょう)」とも言います。 家紋として現在使用されているものの多くは、桔梗紋の清明桔梗と見られ、 現在も晴明神社の神紋などに見ることができます。
次に日本列島を縦断していて、日本海側と太平洋側に流れる水を分ける線のことを 中央分水界と呼ぶそうです。
そこはおよそ平坦な道になっていて、日本列島を縦断する古代の陸路になっていたと 想像できます。 尚且つ、その中央分水界の中で最も低い位置に丹波の水分かれが存在するとのことです。
地政学的にみると、日本海と瀬戸内海を結ぶ平坦な道が存在するそうです。 丹後の盆地は標高も95メートルと低く、北へ由良川を経て日本海へ、 南へはと加古川(明石と姫路の間)を経て瀬戸内海に水が流れています。
日本海から瀬戸内海までは直線距離で100kmほどで、その間の高低さも最大で 100mにも満たさず、海面の高さと近くかなり、なだらかということがわかります。
つまり古代日本列島では、丹波は東西南北につながる交通の要所だったと 想像できるわけです。 しかも、もし海面が現在より100m上昇していたら日本列島本州は ふたつに分かれていたかもしれませんね。 それぐらい海面との高低差が少なかったとのことです。
古墳も多く発見され、日本の交通の要所で大陸からの玄関にあたる、 籠神社や眞名井神社の場所は重要な拠点として建立されたのでしょう。
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眞名井神社(籠神社の奥宮)へ参拝 |
平成三十年 四月一日参拝
眞名井神社(籠神社の奥宮)へ参拝(京都 丹後一宮)させて頂きました。
籠神社から歩いて5分くらいで着きました。 そしてまず眞名井神社の石碑をみてみると、なんと六芒星が描かれていませんでした。
この六芒星「ダビデの星」は削られて、「三つ巴(みつどもえ)」籠神社の社紋に変えられたのでしょうか? 私は六芒星の石碑を直接見たわけではないのですが(笑)
ネットから見つけた比較した写真を貼ります。 左の写真が六芒星、右が現在の三つ巴

そういえば先程、籠神社で販売されている絵馬も、確かめてみると六芒星が描かれていませんでした。
私が見た本やネットは捏造?もしくは何か理由があって隠さなければならなくなったのでしょうか? 後から思えば神社の方に聞けば良かったですね。
眞名井神社の第二の鳥居をくぐると写真撮影禁止になっていました。 ネットで見たことのある拝殿、本殿、磐座は現在工事中で見ることが出来ませんでした。 今年の秋頃に工事完了するとの看板がありました。
冬は雪もすごい地域ですので、それまでにもう一度参拝したいです。
かなりのパワ-スポットなのでしょうか? 地元の観光サイトにおいて【不純な気持ちでの参拝はお控えください】とあるようです。 (私は確認できていません)
二の鳥居の前に狛犬ならぬ狛龍がいました。珍しいですね。
「真名井の御神水」 鳥居横にある「天の真名井の水」をいただくと良い。前世から持ち越してきた様々な曇りを祓う力がある。 しかし前世の罪を清算するということは多少覚悟がいるので、覚悟のない人は飲まない方がいいかもしれない。 といわれているそうです。
飲むのを忘れていました。次回参拝時には飲みたいと思います。
【眞名井神社 第一の鳥居】
【眞名井神社の石碑】
【眞名井神社 第ニの鳥居】
【眞名井神社 狛龍】
【眞名井神社 御朱印】
【別称】 豊受大神宮・比沼真名井(ひぬまない)・外宮元宮・元伊勢大元宮 【古称】 匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)・与謝宮(よさのみや)・久志濱宮(くしはまのみや) 【御祭神】 豊受大神を主祭神として、天照大神・伊射奈岐大神(いざなぎおおかみ)・伊射奈美大神(いざなみおおかみ)・ 罔象女命(みづはのめのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・神代五代神(かみよいつつよのかみ) をお祀りしています。 豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)・ 御饌津神(みけつかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘女神・豊受比売とも云います。 また食物を司るという属性の類似性から、倉稲魂命(うかのみたま)・宇迦之御魂(うかのみたま)・ 保食神(うけもちのかみ)・大宜津比売命(おおげつひめのみこと)なども同神と考えられています。 『丹後風土記』に収載の「天女伝説」に登場する豊宇賀能売神も豊受大神の属性の神ですが、 伊勢神宮外宮の主祭神の豊受大神とは別神で、豊宇賀能売神は御酒殿の守護神である「御酒殿神」として 伊勢神宮の所管社に祀られています。
【磐座(いわくら)】 真名井神社本殿の裏手には、古代からの祭祀場である磐座が三カ所あります。 磐座とは、簡単に云うと神の降臨場所或いは神の鎮座場所のことで、 神を祀るための神聖な石や岩のことを云います。 【磐座主座の御祭神】 豊受大神 【磐座西座の御祭神】 天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神 【磐座奥座の御祭神】 盬土老翁(しおつちのおじ) 宇迦之御魂 熊野大神 愛宕神 【御由緒】 天橋立北浜にある真名井原に鎮座する真名井神社(まないじんじゃ)は元伊勢籠神社の奥宮であり、 古代には「匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)」と呼ばれていました。 匏宮は天照大神の孫神であり、海部家の始祖でもある彦火明命が創祀した「宮」で、 丹後の最高神である「豊受大神」をお祀りしていました。 その御縁故により、 第十代崇神天皇三十九年に皇女豊鋤入姫命が御杖代となって「天照大神」を倭国笠縫邑から 当地の真名井原にお遷しになり、豊受大神と天照大神を並び併せて「吉佐宮(よさのみや)」と称して 四年間お祀り申し上げました。 つまり「吉佐宮」とは、神代から豊受大神をお祀りしていた「宮」或いは、 崇神天皇の御代に真名井原において豊受大神と天照大神を 一緒に四年間お祀りした「宮」のことを云います。 天照大神は最終的には垂仁天皇二十六年九月に皇女倭姫命が伊勢の地にお鎮め申し上げました。 その後おおよそ四百八十年経った第二十一代雄略天皇二十一年に倭姫命の御夢に 天照大神がお現れになり、「皇大神(天照大神)、吾、天之少宮に坐しし如く、 天の下にしても一所に坐さずは御饌も安く聞こし食さず、 丹波国の與佐(よさ)の小見の比沼の魚井原(まないはら)に坐す道主(丹波道主)の子、 八乎止女(やおとめ)の斎奉る御饌津神(食事を司る神)、止由居太神(豊受大神)を 我が坐す国へ坐さしめむと欲す」とお告げになりました。 それによって豊受大神は雄略天皇二十二年七月七日に天橋立北側にある 真名井原から伊勢の地にお遷りになりました。両大神が伊勢にお遷りになった後、 飛鳥時代に「宮名」を「吉佐宮」から「籠宮(このみや)」と改め、 奈良時代に奥宮の地から現在籠神社が鎮座する場所に遷宮いたしました。 遷宮した後の「吉佐宮」においても祭祀は続けられ、「真名井神社」と呼ばれるようになりました。
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籠神社へ参拝(京都 丹後一宮) |
平成三十年 四月一日参拝
籠神社へ参拝(京都 丹後一宮)させて頂きました。
朝6時30分に家を出発しました。ナビで高速で1時間45分、下道で2時間45分だったので 下道でのんびり行くことにしました。 ちょうど桜が満開で咲いているところが多く、桜のトンネルなどくぐりながら山道をドライブしました。
籠神社は元伊勢といわれていて歴史が古いのと、絵馬や奥宮の眞名井神社の碑にカゴメ紋の六芒星が 描かれているということでユダヤとのつながりがあるのだろうと参拝を楽しみにしていました。 駐車場は維持管理費として700円頂いているとのことでした。 駐車場にあるお手洗いも凄く綺麗でした。
元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、古称の「吉佐宮(よさのみや」)また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」 「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称します。 現在まで海部氏が神職を担当しています。
『社殿様式』 御本殿は伊勢神宮と同様の唯一神明造りで、勝男木は十本、千木は内そぎになっています。 高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は伊勢神宮御正殿と籠神社以外には拝せられないもので、 日本神社建築史上特に貴重なものとされています。
『日本最古の系図』 海部氏系図は平安初期のもので日本最古の系図(国宝)があります。
『日本最古の伝世鏡』 海部家に国宝系図以上に重要なものとして伝えられてきました。 国宝系図に天祖からこれらの鏡を授かったと書かれており、その素性の正しさを表しています。 邊津鏡(へつかがみ)前漢時代(約2050年前)、息津鏡(おきつかがみ)後漢時代(約1950年前)
『石造狛犬 二基』 社頭の狛犬二基は鎌倉時代の作でありますが、石造狛犬として日本一の名作であると 定評があります。
重要文化財の狛犬の写真を撮るのを忘れていました。 神門から中は写真撮影禁止になっていましたので、拝殿や本殿は撮影できませんでした。
主祭神 彦火明命 (ひこほあかりのみこと) 「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。
彦火明命(ひこほあかりのみこと) 天照大神の御孫神で、邇邇芸命(ににぎのみこと)の御兄神に当たられます。 邇邇芸命は天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって日向の高千穂に天降られましたが、 彦火明命は豊受大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって現在の丹後に天降られ、 丹後・丹波地方を開拓し、豊受大神を丹後でお祀りになった神様です。 彦火明命は穂赤命(ほあかのみこと)とも呼ばれ、稲作に関係する側面と太陽神としての側面を持ち合わせています。 別名を天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・ 天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)とも云います。 また社伝によれば、彦火明命は上賀茂神社の賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と異名同神であると伝えられ、 その御祖の大神である下鴨神社の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)も併せ祀っていると伝えられています。 また古伝によると、十種神宝(とくさのかんだから)を持って来られた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 (あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)また、 大汝命(大国主命)の御子神、火明命(彦火火出見命の御弟)、丹波道主王とも云われています。
【籠神社 一の鳥居】
【籠神社 さざれ石】
【籠神社 二の鳥居】
【籠神社 神門】
【籠神社 御朱印】
【御祭神】 彦火明命 【相殿神】 豊受大神(とようけのおおかみ) - 「御饌津神」ともいうとする。 天照大神(あまてらすおおかみ) 海神(わたつみのかみ) - 社家海部氏の氏神。 天水分神(あめのみくまりのかみ)
【創建】 不詳(有史以前) 【ご由緒】 籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀が行われるようになった という意味ではありません。 と云いますのは、籠神社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、 創建されたからです。 籠神社が創建されるまで奥宮真名井神社は吉佐宮(匏宮・與謝宮・与謝宮・与佐宮などと 表記していずれも「よさのみや」と訓みます)と呼ばれておりました。 神代の時代から天照大神の孫神であり、邇邇芸命の兄神である 当社海部家の始祖彦火明命が豊受大神をお祀りしていました。 そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑からお遷りになり、 天照大神と豊受大神を「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で四年間お祀り申し上げました。 その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の 御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。 真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていましたが その後当社海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、 真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、 二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮し、 それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、 相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀いたしました。
奥宮の眞名井神社は次回にご紹介いたします。
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天の岩戸を参拝(伊勢) |
平成二十九年 十一月三日参拝
【襲われそうな緊張感、ここぞパワスポ!天の岩戸】
『神社の謎』から紹介です。
『「もっともっとすごい場所」それは、伊雑宮から神宮への帰り道にある天岩戸である。
ある意味、大和からヤマト姫が宮を転々とし、伊勢に到達するまでにアマテラスが隠れた、 または身を隠さなければならなかったとするなら、最後の〝元伊勢〟とされる場から 近いここに天岩戸とよばれる場所が存在していても、何ら不思議ではない。
そこは志摩半島のほぼ中央で、逢坂山中腹の恵利原地区に湧き出ている恵利原の水穴と 呼ばれる湧き水の湧出地があり、湧出口は直径50センチほどの洞窟になっています。 日量は400トン、常温14度、奥行きは約10キロあるといわれ、それは北西に位置する 伊勢神宮に届くといわれている。
ここのパワ-は並外れているからル-トに入れておきたいとこです。 もしも瀧原宮、伊雑宮までの時間はとれなくても、ここは倭姫宮から車で20分ほどなので 是非寄ってほしい。
水穴の洞窟前の本殿、横に建つ社は自然と跪いてしまう圧倒的な氣を発散させています。 腰が砕けるというのか、立ったままでは失礼に当たるという思いからなのか、 何しろ自然に座り込んでしまうような力があるように思える。
さらにここから300メ-トルほど山道を歩いていくと、風穴といわれる場所がある。 鳥居のある階段を上がるとほどなく山道となり、 人が1人やっと通れるほどの細道になっていて、 5分ほど歩いて入ったところにある。
ここの雰囲気は独特で、後ろから何かに襲われそうになる一種の恐怖心、 何が出てきてもおかしくないというような霊気が漂ってる。 誰かにどこかから見られているような緊張感に襲われ、 ただただ「御導きのままに歩いていきます」と拝むのがやっとであった。
祝詞を上げながらも声が上ずり、「助けて」と 叫びたいほどのパワーなのだ。 まだ周囲は明るいのに、早く元の場所に戻りたいと 思う衝動にかられ、もと来た道を何度も振り返りながら急いだ。 たった5分ほどのはずの時間がやけに長かった。
水穴をつたって作られる滝まで戻ってきてやっと落ち着きを取り戻し、それが満足感に変わっていく。
私はこの体験から大きなパワスポと、そうでない 場所の違いをよく感じるようになった。 自分の小ささや思い描いている事柄のちっぽけなことを教えこまれた気がした。
ここは伊勢道路から天岩戸と記された鳥居を入って、しばらく車を走らせると到着する。 ここを訪れるには車がないとちょっと不便である。 倭姫宮から天岩戸まで車なら20分で到着なのだが、電車だと途中の駅から歩かずタクシーを使ったとしても、 優に1時間以上はかかってしまう。
私はいろんな場所で、神社へ向かうときはほとんど 地元のレンタカーで小回りの利く小さな車を借りて走るようにしている。 歩くには時間が足りない!と思われるような神社や 奥宮にも車があれば便利だし、天気の急変などにも心強い。 荷物を入れっぱなしにしておけることも嬉しいし、 それこそ車内で正装に着替えるなんていうこともできるのである。』
以上、『神社の謎』からでした。 私はこの本を参考に参拝させて頂きました。 本を読んでいたからかもしれませんが、確かに襲われそうとか、見られている気にはなりました。 私一人で歩いているのと、前後に人がいなかったのも余計にそう思わせたかもしれません。
本かなにかで、「伊勢を参らば朝熊を駆けよ、朝熊を駆けねば片参り」といわれているというのをみたので、 「朝熊岳金剛證寺」へ最後にお参りに向かいました。駐車場は無料ですが、スカイラインが1,000円ぐらい かかった気がします。 境内には入れたのですが、すでに参拝時間は終わっており、お参りはできませんでした。 たしか時刻は15時30分ころでした。 15時までと看板に書かれていました。 たぶん時間は合っていると思います。 御朱印を戴くのに16時までには着かないとと思っていたので・・・。
ガクっときて疲れがどっと出ました。 気をとりなおし、山頂の展望台に行ってから帰宅の途に着きました。
これで私の今回の伊勢神宮めぐりは最後になります。 特別参宮証がありますので、平成三十年中にもう一度参拝させて頂きたいと思います。
【天の岩戸 第一鳥居】
【天の岩戸 第ニ鳥居】
【天の岩戸】
【風穴 鳥居】
【風穴】
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伊雑宮の別のお話 |
伊雑宮では次のようなお話もあります。
事実かどうかは分かりませんが,その方の推論です。 ただ色々詳しく調べているよう思えます。 私は興味深々で、凄く驚きの連続でした。
『八上 白兎神社Ⅱと全国神話伝承』というブログに書いてありました。 以下、紹介致します。
「 秦氏とニギハヤヒ・伊雑宮・籠神社 私論」 古代史 まだ試論段階ではありますが、公開いたします。
秦氏と関わる先代旧事本紀、これにはいくつかの種類がありますが、 アカデミズムでは10巻本が許容され、72巻の先代旧事本紀大成経は、 江戸時代に物議をかもしたことから、偽書のレッテルが貼られているようです。 秦氏は、日本の神社、神道に大きな影響を及ぼし、さまざまな改変を加えてきたようです。 その内容がどれほどのものであったかはよくわかっていません。 筆者はこの間、秦氏とも関連するニギハヤヒをめぐって、あらためて見直しをしている最中ではあります。 そもそも、(ニニキネノ命の孫にあたる)ニギハヤヒは、ホツマによれば、 ニニキネノミコトと木花咲耶姫の御子であるホノアカリムメヒトとタマネ姫の御子で、 世継ぎができなかった天火明命(ニニキネノ命の兄)のもとへ養子となった、とあります。 http://gejirin.com/src/Ni/nigihayahi.html ところが、この火明命とニギハヤヒを同一視している学者や好事家が少なからずいて、 さらにたちの悪いことにニギハヤヒと大物主命、大国主命が同一の神であるとか、 天照大神と同一であるとか、勝手な思い込みをまき散らしている方もいて、巷間に相当な混乱を招いています。 物部系の書といわれる先代旧事本紀ですが、秦氏の監修のもとに完成したこの書物は、 記紀よりもいっそう警戒が必要な代物といえそうです。 アカデミズムでは72巻本は偽書とされていますが、逆にこの72巻本の内容から30巻本、 そしてアカデミズムも容認する10巻本が出来上がったとみる向きもあります。 この72巻本は、江戸時代、伊雑宮の神庫から発見されたもので、特にその内容に、 内宮と外宮の祭神に関して、と神武以降仁徳天皇までの8名の皇統の身体的特徴について 荒唐無稽な記述があること等から、即座に幕府によって取り締まられたわけです。 ウィキペディアにはこうあります。 >大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、伊雑宮が日神を祀る社であり 内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説<
伊雑宮、といえば、筆者も以前、佐美長神社の件で記した通り、平安時代ごろには祭神がすり替えられ、 元は、ホツマにあるように天照大神と瀬織津姫の2柱が祀られていなくてはならないものを、 1柱だけの祭祀となり、しかも祭神名も全く別の神名に変えられていた、というところです。 http://white.ap.teacup.com/hakuto/827.html ですから、上記の、伊雑宮の神職が主張していた内容も、すでに改変を加えられた後の影響も 受けたものと考えてよいでしょう。 ホツマによれば、伊雑宮は天照大神と瀬織津姫が長年お住まいとされ、 そこで、全国の統治をなさったところですから、たいへん重要な場所であることは間違いありません。 その意味で、伊雑宮神職の主張は外れていません。 ホツマでは伊勢神宮内宮も、天照大神と瀬織津姫が晩年にお住まいになったところ、 と記されています。ですから伊雑宮も内宮も本来はどちらも同じ神が祀られているのです。 外宮についてはその創始年代が若干不明なところもありますが、 雄略22年秋には豊受大神の御霊代が丹後の久次嶽、比沼麻奈為神社より遷座したことはほぼ間違いありません。 もっともそれ以前より、外宮敷地の多賀宮において、宇宙根源神を祭祀していた可能性は十分あるもの、 と筆者は想像しています。
ですから、上記の先代旧事本紀大成経72巻本のような、伊勢内宮・外宮に対する評価・位置づけは 奇妙としか言いようがないのです。 先代旧事本紀の成立に関しても事実上、無理矢理に全国の有名氏族から それぞれ固有の神代文字で記された門外不出の史書・古文書を接収した (場合によっては奪い取ったと思われる)のです。ヲシテ文献(ホツマ・ミカサフミ)と 思われる文書を四国の阿波宮=金刀比羅宮と東大阪市の枚岡宮から接収したことも記されています。 秦氏は、仲哀天皇崩御後、神功皇后が朝鮮半島との外交交渉=三韓出兵を果たした直後より、 日本の祭政に大きく関与しはじめたものと思われます。 仲哀天皇が崩御されて後、70年間、日本に天皇が存在しない、誰も即位できない、 という大空位時代を経て、応神天皇が即位し、応神天皇政権は外来思想導入に積極的になりますが、 この背景には間違いなく秦氏の影響があったのではないでしょうか。 そして秦氏は神功皇后と応神天皇を極度に祭り上げます。それが全国各地に残る神功皇后伝説です。 中には史実に沿ったものもあるでしょうが、それにしても六甲山周辺の神功皇后伝承とは 、瀬織津姫の伝承地にぶつけて掻き消していったと思われる形跡があります。 応神天皇は八幡大神として他の人皇とは比べ物にならないくらいのはるかに高い扱いを受けて 崇拝されるようになり、全国に数多くの八幡神社が創建されました。 応神天皇陵は体積で日本一、続く仁徳天皇陵は面積で日本一、 これらの巨大古墳造営は従来の土師氏ではなく、秦氏が大きくからんでいます。 秦氏と何らかの政治的妥協をせざるを得なかった神功皇后一行が大和へ帰還される際に、 阪神間でそれを阻む動きがありました。 仲哀天皇と大中姫の御子である麤坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)兄弟が、 おそらく外来勢力の影響下にある神功皇后と応神勢力に対抗しようとしますが、 (この辺りは記紀ではあいまいな表現で真相はよく分からないものの)事実上兄弟は鎮圧されてしまいました。 時代的には200年ごろ、3世紀のことです。 それから300年以上も経た時代に、聖徳太子が麤坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)兄弟を 弔う意図で、二人が命を落とした宝塚市に中山寺他数ヶ寺を創建しました。 聖徳太子の実母、間人(はしうど)皇后は蘇我氏であり、秦氏系です。 (間人皇后の母である蘇我小姉君が蘇我馬子の妹にあたります。) 聖徳太子は、皇室の血を引くと同時に、秦氏の血を引いています。 ですから、同じ秦氏系の蘇我馬子や秦河勝と共同歩調を取っているわけですし、秦氏の拠点、 京都太秦の広隆寺や同じく秦氏の拠点である播磨、四国とも縁が深いのです。 このような流れから見れば、聖徳太子が、この麤坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)兄弟を 厚く弔う意味も判明してきます。 秦氏は、天皇家に成り代わって、自分たち一族の代表を皇統にしようとしたのではないでしょうか。 そのために、皇統の系列の中で、最もつけ入りやすい人物を自らの始祖として偽装しようとして、 そのターゲットとなったのが、瓊瓊杵尊の兄である、火明命であり、 また、天照大神と名前が類似した天照国照ニギハヤヒノ命であったと思われます。 そして、自分たち氏族を物部氏である、とも偽ったのではないでしょうか。 (物部氏については不明な点が多く、要調査です。) それを文書として、偽装しようとしたのが先代旧事本紀で、その中でニギハヤヒを始祖としたわけです。 その動きと連動させて、彼らの一大拠点であった四国においても つじつまを合わせるべく秦氏の流れであるはずの河野氏、越智氏の系図において、 始祖を徐福とするのと並んで、ニギハヤヒとしたものと思われます。 http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/27996987.html 伊雑宮は早くから秦氏が奪い取って手を加えたと思われます。 佐美長神社主祭神は大歳神となっています。大歳神は秦氏の拠点、播磨に異常に多く祀られています。 そのわきに、極端に小さな祠が4つありますが、この上から見下ろすようにして 拝さなくてはならない佐美長御前神社が、元は伊雑宮に天照大神と共に並祭されていた瀬織津姫と思われます。 本当にひどい話です。
http://www.genbu.net/data/sima/saminaga_title.htm
丹後半島に移ります。おそらく、間人皇后も政争から逃れるために 自分たち秦氏の拠点であった丹後半島に向かったのでしょう。 丹後の間人(たいざ)は、この間人(はしうど)皇后が退座されたことが由来の地名です。
ここにおいても秦氏の一大拠点として、竹野神社と天橋立の籠神社が活用されたものと思われます。 籠神社主祭神は彦火明命(天火明命)です。 ホツマには、火明命は、(おそらく天津日継としてふさわしくなかったために) 世継ぎは一人もできなかった、と記されています。 ニギハヤヒノ命は天火明命の養子であり、血縁関係はありません。 ですから系図の始祖として天火明命が位置付けられていることは疑問な点です。 すでに海部氏系図については、よくよく検討すべきという意見も出ています。 宝賀 寿男氏 国宝「海部氏系図」への疑問 http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/amabe/amabe-k1.htm いずれにせよ、秦氏の拠点としてこの二つの神社は重要視されたのではないでしょうか。 それが2つの神社を結びつけるとされる両宮の「裏社紋の六芒星」であったり、 伊雑宮を鶴、籠神社を亀になぞらえてペアとみなすようにされたものと思われます。 また伊雑宮付近には丹後半島と同じように、中国由来の神仙思想に基づく龍宮伝説も作り上げられています。 羽衣伝承や浦嶋伝承で、豊受大神の御業績を塗りつぶそうとした手法と類似しているように思えます。
以上になります。
私にとって非常におもしろいです。 いろんな見方がありますね。
上記ででてきました『豊受大神の御霊代が丹後の久次嶽、比沼麻奈為神社より遷座した』の 「比沼麻奈為神社」も参拝させて頂きましたので、後日書かせて頂きます。
参拝の前日に籠神社の他に参拝させて頂こうと、神社を調べていましたら 元伊勢内宮、元伊勢豊受大神社、が目にとまり参拝しようと決めたあとに なにげなく、この「比沼麻奈為神社」に参拝された方の記事をみつけて 参拝させて頂くことになりました。 参拝させて頂けたご縁に感謝しております。
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