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eskky28

Author:eskky28
男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
瀧原宮(内宮別宮)へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

伊勢神宮 内宮 別宮の瀧原宮へ参拝させて頂きました。

距離感を書くのを忘れていました。
私のこの日の動きです。
記憶もあいまいですので、だいたいの時間です。
駐車場はすべて無料でありました。猿田彦神社は有料で時間制でした。

二見興玉神社→外宮(二見興玉神社から車で25分)
外宮→月夜見宮(徒歩5分)
月夜見宮→猿田彦神社(月夜見宮から車で10分)
猿田彦神社→内宮(徒歩10分)
内宮→月讀宮(内宮から車で5分)
月讀宮→倭姫宮(内宮から車で10分)
倭姫宮→瀧原宮(倭姫宮から車で40分)
瀧原宮→伊雑宮(瀧原宮から車で60分)
伊雑宮→天岩戸(内宮から車で20分)(伊雑宮から神宮への帰り道にあります)
天岩戸→朝熊岳金剛證寺(内宮から車で15分)

【隠されたパワ-スポット、瀧原宮】
遥宮として崇敬され内宮外宮より歴史が古いという、
瀧原宮とその隣に建つ瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)は
隠れたというより隠されたパワ-スポットといっていい場所みたいです。

倭姫が大河の瀧原の国に氣を感じ、建てられた瀧原宮は凛とした佇まいに品格すら備わっている感じでした。
瀧原宮は内宮の雛形ともされ、〝ミニ内宮〟とも呼ばれたりしているそうです。
〝本当の伊勢はここにある〟ともいわれてきた場所だそうです。

瀧原宮は倭姫が大和国からアマテラス大神を祀るため、伊勢まで旅した最後、つまり伊勢神宮に
アマテラス大神を鎮座させる直前に祀っていた社。
いわば最後の〝元伊勢〟ともいうべき場所なのです。

五十鈴川同様、清流で手を洗い、口をゆすぐ御手洗がある強力な聖地なのですが、
ここは導かれる人以外はあまり訪ねることがないそうです。
確かに参拝されていた方たちは入れ違いも含めて、8~10人だったような気がします。


遷宮ブ-ムの人混みから一種隔絶された神域なのであります。

鳥居から凄く樹齢の古い大きな木が、参道の両脇(まるで深い森の中)にあり、
そこを抜けると奥に4社の建物が見えてきます。
ここでもお詣りする順番が大切なポイントとなります。

まずは本宮の瀧原宮、その後に瀧原竝宮をお詣りしてから、3番目に
若宮神社、最後に長由介(ながゆけ)神社の順にお詣りします。

隣へ隣へとお詣りしがちなので、順番には氣をつけましょう。

以上、『神社の謎』から抜粋致しました。

【瀧原宮の鳥居】


【瀧原宮 拝殿】


【瀧原宮 御朱印】

【御祭神】
天照大御神御魂
【創建】
804年以前
【ご由緒】
内宮(天照大御神)と荒祭宮(天照大御神荒魂)の関係である。
すなわち瀧原宮は天照皇大御神の和魂(にぎみたま)、
瀧原竝宮は天照皇大御神の荒魂(あらみたま)を祀るとされる。

瀧原宮の、正確な起源はわからない。
本宮は、倭姫命が内宮よりも先に天照大御神を祀った場所という伝承がある。
『倭姫命世記』によると、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が、宮川下流の磯宮(いそのみや)より
天照坐皇大御神(天照大神)を祀る地を探すために上流へ遡ったところ、
宮川支流『大内山川』の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので、
草木を刈り新宮を建てた。だが天照皇大神の神意により、
現在の内宮のある伊勢市宇治館町に新宮(五十鈴宮)を建てたため、
天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったとされる。
神宮ではこの説を採る。
なお天照大神を過去に祀っていた場所を元伊勢と呼ぶが、別宮とされたのは瀧原宮だけである。
別宮とされた理由は不明であるが、ヤマト王権が勢力を南下させるにあたり重視した説などがある。
804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』には、
天照大神の遙宮(とおのみや)と記述されており、それ以前からあったと考えられている。
皇太神宮儀式帳では瀧原宮1院1号で、延喜太神宮式では別号とされているため、
創建当初は瀧原竝宮は瀧原宮に含まれ、804年から927年の間に独立したと考えられている。

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倭姫宮(内宮別宮)へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

前回の続きで伊勢神宮です。
次に詣でたのが外宮に近い倭姫宮に
参拝させて頂きました。

倭姫は奈良の大和国から数国を経て、現在の伊勢神宮にアマテラスをお祀りし伊勢神宮を創建したとされる。

御祭神の倭姫は第11代垂仁天皇の第四皇女で、
日本武尊(ヤマトタケル)の叔母であります。

その姫を祀る神社として大正時代に別宮に
認められ、伊勢神宮125社でもっとも新しい社
であります。

この宮は生きていることへの感謝が湧き上がってくるような力がみなぎっています。

困ったことがあったり、どちらが良いか決め兼ねているような時こそ、ここを訪れてみると良いそうです。
結果がすぐに出てきたり、思いあかんできたりすることが多いそうです。

さらに自分のためだけではなく、他人のために動く、働くという力があります。

祭祀や神職、摂社や末社、御料など神宮の基礎を作ったのが倭姫といわれています。
(御料とは天皇が使用する衣服や器、飲食物などを指します)

どこまで信用できるかは分かりませんが、
飛騨口碑では出雲神道(シラギ神崇拝教)に
アマテラス大神の「八咫鏡」を狙われていたとのことでした。
八咫鏡は皇位の印で持っている人が天皇になるのです。

出雲は大和朝廷を脅かす勢力をつけていたので、
「八咫鏡」を奪われないように逃げ回り、倭姫命は
あちこちと天照大神を祀る地を探して廻り伊勢に至ったのです。

伊勢には飛騨王朝末期に下山して住みついた人々が多く、天照大神を賛仰する人が大勢いて守ってくれたので伊勢の地に神宮が定まったとのことです。

またいつか飛騨口碑やウエツフミのことも書いていきたいと思います。

【倭姫宮 鳥居】


【倭姫宮 拝殿】


【倭姫宮 御朱印】

【御祭神】
倭姫命
【創建】
1923年(大正12年)
【ご由緒】
伊勢神宮において、内宮と外宮と合わせ別宮は荒祭宮、多賀宮、月讀宮、土宮、月夜見宮、瀧原宮、伊雑宮、風日祈宮、風宮など14宮あるが、そのうち創建が明確であるのは倭姫宮1宮のみで、1923年(大正12年)11月5日ともっとも新しい。

倭姫宮は、内宮と外宮を結ぶ御幸道路の中ほどの倉田山に鎮座し、倭姫命をお祀りしています。緑のあざやかな倉田山の西側には、神宮徴古館じんぐうちょうこかん・農業館、美術館、神宮文庫等があり、この辺りを「倭姫文化の森」といいます。

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月讀宮へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

前回の続きで伊勢神宮です。
次に詣でたのが月讀宮に参拝させて頂きました。

その前に私は詣でてないのですが、内宮の荒祭宮を詣でた後、時間によっては内宮の中にある
子安神社、その奥にある大山祇神社を詣でるとよいと『神社の謎』に書いてありました。
子安は安産の神、大山祇(オオヤマツミ)は山の神であります。

内宮を出てすがすがしい気持ちで五十鈴川をまた渡ります。駐車場のある裏手の小高い場所に、
饗土橋姫神社(あえどはしひめ)という小さな社があり、伊勢の旅の安全を守っている神様です。
無事に伊勢神宮を詣でることができたことへの感謝と、残る帰路の安全をお願いしましょう。

内宮前の雑踏をひっそりと守り眺めているこの神社は、やさしく見守るという大切なのに
忘れがちな心を復活させる力があるそうです。
内宮を抜けたあと最初に手を合わせるべき場所であります。

そこを参ったあとは宇治橋から五十鈴川に沿って続く約800メートルの美しい石畳、
伊勢の旧参宮道である、おはらい町通りに出ます。
参拝後に観光を楽しむ人たちで年中賑わっています。


【参拝順番を間違えられない月讀宮】

内宮の境外の別宮として外宮の月夜見宮と同じく月讀宮は訪れたい。
こちらが男神とされる神社である。
ここに祀られているのはアマテラス大神の弟のツキヨミであります。
アマテラス大神が明るさの象徴であるなら、弟のツキヨミは陰の象徴とされています。

月讀の讀、これは黄泉の国、つまり死の国の支配者とも考えることができる。

『日本書記』ではまだ神が天から下る前、アマテラス大神からツキヨミは保食神(ウケモチ)と
対面するよう命ぜられた。
そのときウケモチは口から飯を出したので、ツキヨミは「汚らわしい」と怒り剣で刺し殺す。
その死体からは牛馬や蚕、稲などが生まれ、これがそれぞれ穀物の起源となるという話が見られます。

アマテラス大神はその凶行を聞き、「汝、悪しき神なり」と怒り、以来日と月とは一日一夜、
隔て離れて住むようになったということです。
これが「日月分離」、姉弟仲違いの理由だといいます。

しかし『古事記』では同じく食物神のオオゲツヒメを殺すのは、アマテラス大神、ツキヨミの弟の
スサノオの役目になっています。
『古事記』の中でツキヨミは、誕生の項以外ほとんどでてこないのです。

以上のことなどからツキヨミとスサノオを同一神と見る向きもあります。

スサノオといえば、アマテラス大神の逆鱗に触れて出雲の国に追放される。
出雲は黄泉の国がある場所です。〝黄泉の国〟に行ったスサノオの〝黄泉が〟、
ツキヨミの〝ヨミ〟と同一視されるゆえんでもあります。

いつも参考にさせて頂いている『神社の謎』の著者の合田道人氏は
別宮の中で一番心を奪われる宮は、ここ月讀宮であるそうです。
そのパワーとオーラはさすが内宮境外の別宮最高位だけのことがあるそうです。


さて、月讀宮は敷地内に4つの内宮の別宮が並んで立っています。
ここは参拝の順番が難しいのです。参る順番を間違えると逆効果になるそうなのです。
右から順でもなく左から順でもありません。

まずは鳥居に向かって右から2番目の宮の月讀宮からです。
ここは「お詣りに詣りました」とご挨拶をします。

次に向かっていちばん右のツキヨミの荒魂を祀る宮です。
ここで「お願い事をします」
この月讀荒魂宮の氣は何者にも負けない思い、ライバルに競り勝とうとする強いパワ-を
秘めているそうです。

次に向かって右から3番目の父イザナギの宮。

最後に母イザナミの宮の順に参拝します。


私がお詣りさせて頂いたときは、先に20代ぐらいの女性2人(日本人と白人)がお詣りしていて
大声で泣きながら長時間、宮の前で手を合わせていました。
特に月讀宮とイザナミの宮がすごかったです。
白人の女性は宮から離れた後ろのほうで正座をして待っていました。

抜かして御朱印を頂いていると、2人も社務所に来ました。
何か自然とこみ上げてくると宮の人と話ていました。

【五十鈴川】


【おかげ横丁】


【月讀と月讀荒魂宮】


【イザナギの宮とイザナミの宮】


【月讀宮 御朱印】

【御祭神】
月讀宮:月讀尊(つきよみのみこと)
月讀荒御魂宮:月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
伊佐奈岐宮:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊佐奈弥宮:伊弉冉尊(いざなみのみこと)
【創建】
804年以前
【ご由緒】
由緒は定かではないが、第50代桓武天皇の804年(延暦23年)の大神宮儀式帳に「月讀宮一院、正殿四区」で、一囲の瑞垣内に祀られていたと記されており、別宮4社あわせて「月讀宮」と呼ばれていた。第56代清和天皇の867年(貞観9年)に伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮の宮号が与えられた。
第60代醍醐天皇の927年(延長5年)の延喜式によれば、この時代には伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮に瑞垣をめぐらし一院とし、月讀宮と月讀荒御魂宮が同様に一院となっていたとされる。1873年(明治6年)より、4社とも個別の瑞垣を持つ現在の形になった。
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いよいよ内宮へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

いよいよ内宮へ参拝させて頂きました。

またまた『神社の謎』から内宮の参拝のコツを
紹介したいと思います。

およそ2000年前の垂仁天皇26年(紀元前4世紀)に創始されたといわれる社は、
元は皇室のみ参拝が可能な場所でありました。
それが徐々に庶民へと広がり江戸から現代まで日本の総氏神として崇拝されてきました。

宇治橋は俗世から神の領域、聖界への架け橋という感じがする。
ここは右側通行である。
とうとう神の国への一歩だ。鳥居で一揖。敷き詰められた玉砂利からは、
早くも独特のパワ-を感じさせる。

歩いていくと火除橋が見えてくるが、明治以前はここが内宮の入口だった。
右手に五十鈴川の水を汲み上げた手水舎があり、ここで手を洗い口をゆすぐと第一鳥居。
かつてはここからが神域だったのである。

ここからの空気が〝パン〟と変わることに気が付く。

【御手洗場】
右手に御手洗場が見えてくる。(本来はこの五十鈴川こそが御手洗場である)
五十鈴川へと坂道を下っていき、もう一度身も心も清めてからお参りの準備を
したいものである。

必ず川辺まで下り、そこで二拍手し、改めて手と口を清める。
そして正宮へと進んでいくのだが、正宮に参る前に必ず参拝すべき場所がある。

【滝祭神】
それは『お取次ぎさん』である滝祭神(たきまつりのかみ)である。
五十鈴川の御手洗場近くで五十鈴川の水神を祀っている。
観光客たちにそのまま一緒について歩いていくと、見落としてしまいがちである。

川から上がってくるとすぐに右手に折れるのである。
ここが古くからお取次ぎさんと呼ばれる特殊な神社である。

正宮を詣でる前に、名前と住所、参拝に来たことを報告することで、アマテラスに
「○○が参りにきました」と先に伝えてくださるという箇所である。

そこで取次をお願いし、そのまま進むと道が左右に分かれる。
左手に向かうと正宮なのだが、先に右手に曲がり、橋を渡る。

【風日祈宮】
風の神、別宮の風日祈宮へとまずはご挨拶に伺う。
アマテラスは太陽の神、つまり日の神イコ-ル火の神ともされる。
風は火の力を助けるから、風の氣を十分に受けてから正殿に向かうことで、
力を大きくさせてくれるのである。
これも参拝のコツである。

運のいい人かお導きがあるときは、神様の使いである鹿に出会えるかもしれません。

【正宮では感謝】
とうとう正宮に参拝である。
太古から変わらぬ姿で日本人を見守ってきた穏やかで雅やかなアマテラスの神氣がキラキラしている。
階段を上り外宮でいただいた『特別参宮章』を差し出し御垣内へと進む。
アマテラス大神が鎮座する神前に向かってとうとうお参りするのである。
周りの空気がまたもや〝パ-ン〟と変わった。
何ともいえぬ神々しい氣にのまれそうになる。

大きく二礼して、大きく二拍手。
外宮同様、ここでこまごましたお願い事は断じてしないようにする。
「日々感謝しています。ありがとうございます」
「とうとうこちらにお参りすることができました」
と心で唱えるだけでよく、何はともあれ、感謝なのである。

全く違う氣が流れている空間を前にして「○○して下さい」などという
チンプな願い事が口からでてくるはずがない。
「ありがとうございます」の感謝の念しか思い浮かばなくなっている自分に
気づくはずである。

日々生きていることへのお礼と「この場所に来るとことができ、ありがとうございます」と
報告するのである。

【お願いごとは荒祭宮で】
次にアマテラスの魂が活動的になった状態を祀っている荒祭宮へと向かいます。
ここの魂の宮こそが、人の願いをすべて叶えてくれる神なのだ。
ここで具体的にお願いをするのである。

荒祭宮へ向かう途中の階段の真ん中あたりに
お踏まずの石と呼ばれる石があり、
それを見つけ出し一礼すると願いがより聞き入れられる。
荒祭宮ではしっかりと時間をかけてお願いごとを
したい。

以上、『神社の謎』から参拝のコツでした。

ここから駐車している猿田彦神社へ、おはらい町通り、おかげ横丁を通って歩いていきます。
私はせっかくなのでカキフライ定食を食べて帰ろうとしたのですが、11時からといわれ諦めました。
その時はまだ10時半頃でした。
伊勢うどんの店は並んでいる店もありました。

内宮には八咫鏡があり、その裏にはヘブル語で
「エヘイェ アシェル エヘイェ」と書かれているという説があるそうです。
もし公表され説のとおりなら、日本のルーツが明らかになりますね。
英語で「I AM THAT I AM 」、
日本語で「我は有りて在るもの」という言葉らしいです。

これは旧約聖書の神髄で、神というものの本質を
述べているとのことです。

「存在しているけど見えない、しかし、いるんだよ。あるんだよ。」
つまり、見えないものを見えるような心がけをする。
見えないものにこそ、真の実在がある。
という直訳になるそうです。

深いですね。何か日本的な考えな気がします。


【内宮 鳥居 宇治橋】


【内宮 滝祭宮】


【内宮 正宮】


【内宮 荒祭宮】


【内宮 御朱印】

【御祭神】
天照坐皇大御神(天照大御神)
【創建】
垂仁天皇26年
【ご由緒】
天孫・邇邇芸命が降臨した際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していた。八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後各地を移動した。
垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 3]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)。この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。
なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』[注釈 4]によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。

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猿田彦神社へ参拝(三重)
平成二十九年 十一月三日参拝

前回に引き続きです。外宮を出て内宮へ車を10分程走らせます。
歩いて行くと、道沿いに六芒星のある灯篭が見れるらしいです。

「ダビデの星」と呼ばれるユダヤ教、ユダヤ民族を象徴するマークがある。
二つの正三角形を逆に重ねた六芒星と言われる形をしており、
このマークは、イスラエルの国旗にも描かれている。

どういう関係なのでしょうかね?

内宮の駐車場はすごく混んでいると、本で読んだり聞いたりしていました。

【内宮そばのA駐車場】
内宮そばのA駐車場は平日でも駐車まで1時間以上かかるとか、
土日祝日はそこも駐車できず、観光バス専用の駐車場になっているそうです。

【内宮入口から徒歩15分のB駐車場】
合田道人氏おすすめ。しかしG.W時などには混雑のため閉鎖、C駐車場も閉鎖、
その横のD,E駐車場も満車で五十鈴川の河川敷駐車場まで溢れたそうです。

私は合田道人著の『さらにパワーをいただける 神社の謎』でおすすめされていた
方法で駐車して参拝しました。
その方法を紹介したいと思います。

G.W時にはこの方法も無理でしょうが、B駐車場向かい側にある猿田彦神社の駐車場(有料)に
車を停めて、サルタヒコの導きを頂いてから内宮へと向かうということです。
まさにサルタヒコは導きの神なのだし、交通の神でもあるのです。

道を渡って数分に1度の間隔でやってくるバスに乗り、2つ目のバス停で降りると内宮前です。
(私は歩いて内宮へ行きました。少ししんどかったです。9時頃だったと思いますが
車がずらーと並んでいました。)
内宮を参拝後、帰りはおかげ横丁で食べ歩き、土産品購入などしながら猿田彦神社へと戻る
のです。

猿田彦神社は実は伊勢神宮125社とは直接関係はない神社であります。
しかし、昔このあたり一帯を守っていたサルタヒコの子孫に当たる大田命は、
五十鈴川上流の霊域を倭姫命(ヤマト姫)に献上したとのこと。
そこに神宮が建立されたのだからパワーは十分にあります。
必ず正面の鳥居をくぐりお手水を忘れずに本宮へと詣りましょう。

サルタヒコは外宮参拝前に詣でた二見興玉神社と祭神は同じであります。

天孫降臨の際に暗い道に明かりを照らしたと言われている。
サルタヒコは何かに迷っている場合、お先真っ暗で方向を見失ったとき、
またはその前途に光明を失ったとき、しっかりと参拝すれば暖かい手を差し伸べてくれます。

二見興玉神社がその導きによって大神、伊勢神宮、特に外宮への導いてくれる神社だとするなら、
猿田彦神社は内宮への導きそのものであります。
正しい方向に向かう者にとっては、「日本書紀」に「啓(みちひらき)き行かむ」とあるように、
特に効果が得られます。


さらにこの神社には降臨の際、サルタヒコと応対し妻となった天宇受売命(ウズメ)を祀る
佐瑠女神社が本殿に向かい合うように建っています。
サルタヒコの形相に恐れをなす男神たちとの仲を取り持ち、ニニギから「サルメの君」の名を
賜った女神であります。

つまり天上の神の天津神と、地上の神の国津神との間を取り持ったのである。
そこから男女間の縁に限らず人と人との出会い、仕事や物との結びつき、
良縁の神として人気を高まっています。

ここではこの二柱の御朱印が頂けます。
私は佐瑠女神社の御朱印を頂くのを忘れてしまいましたので、次回頂きたいと思います。

以上、『さらにパワーをいただける神社の謎』
合田道人著からでした。

【猿田彦神社 鳥居】


【猿田彦神社 拝殿】


【佐瑠女神社】


【猿田彦神社 御朱印】

【御祭神】
猿田彦大神
大田命
【創建】
不詳
【ご由緒】
全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」は鈴鹿市の椿大神社ということになっている(昭和10年内務省神社局調査)。

椿大神社の宮司は山本という姓で、猿田彦神社の宮司は宇治土公(うじとこ)という姓である。どちらも猿田彦神・大田命の直系の子孫であると主張している。『倭姫命世記』によれば宇治土公家こそ猿田彦大神の直系の子孫とされており、猿田彦神社が神宮内宮の近くにあることや、猿田彦大神を祀る各地の神社で椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないことから猿田彦神社が猿田彦神を祀る神社の総本社と考える者も多い。(「椿大明神」を祭る「椿神社」は全国各地に存在している)

なお『延喜式神名帳』に記載されている「椿大神社」は、都波岐神社・奈加等神社とする説もあり論争になっている。

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月夜見宮(外宮の別宮)へ参拝
前回に引き続き伊勢神宮の外宮別宮の
月夜見宮へ参拝させて頂きました。

前回書き忘れたのですが、重要なポイントです。

外宮
左側通行
手水舎が左側にあるため
正宮の位置が右側

内宮
右側通行
手水舎が右側にあるため
正宮の位置が左側

と確か『神社の謎』に書かれていたと思います。


外宮の参拝の続きですが、下御井神社の参拝を終え
御神札授与所へと戻る道すがらに、一段高い石段の
中にぽつんと一本だけ榊の木が立っている四至神(みやのめぐりのかみ)があります。

外宮な四方を守護している神で、この神にしっかり手を合わせることで、今までこの外宮で拝んできた内容が速やかに叶うようになります。
四方に一度ずつ、つまり木に向かって東西南北、
4回回りながら「お聞き届けて下さい」と挨拶するとやり効果的です。
「どうぞ四方にいらっしゃる外宮の神様、勝手なお願いごとばかりをして詣りましたが、どうかお力を授けて下さい」といった総まとめとでもいうべき
場所であります。

「いろいろとありがとうございます」といった
最後の挨拶をするべき場所であります。


私は本まで持って行きながら、四至神(みやのめぐりのかみ)の場所がわからずお詣り出来ていませんでした。
今回写真を載せようとしたら、無かったので気付きました。
次回お詣りしたいと思います。

そこから御神札授与所で御朱印を頂き、北御門の鳥居をくぐり振り返って一揖(一礼)し外宮を後にします。

そこから徒歩5分のところにある、外宮の敷地外の
別宮の月夜見宮(つきよみのみや)へ参拝に向かいます。

外宮から月夜見宮までの道を〝神路通り〟といい、
ここもひだり端を慎ましく歩く決まりがあります。

月讀宮と書いて同じ読み、同じ祭神を祀る宮もありますが、そちらは内宮の別宮で、外宮のほうの別宮が月夜見宮です。

なぜ同じ読みで内宮、外宮それぞれに別宮があるのかは分かっておらず、不思議です。

〝ツクヨミ(ツキヨミ)〟とは、アマテラスの弟神になります。
月讀と月夜見は今では同一神とされていますが、元は内宮な月讀は男性神で外宮の月夜見は女性神だという話が残っています。

月夜見宮にはおおらかさ、やさしさ、静けさたいった氣があります。
それはまるで天空から暗闇を照らすような力なのです。
まさに月の力なのです。
悲しみ、辛さを明るい方向に導いてくれる方法の
〝うかび〟、つまり心の声が聞こえてくる宮なのです。

以上『神社の謎』からでした。

【外宮 多賀宮】


【外宮 別宮 月夜見宮 鳥居】


【外宮 別宮 月夜見宮 遷宮前の手水舎】


【外宮 別宮 月夜見宮】


【外宮 別宮 月夜見宮 御朱印】

【御祭神】
月夜見尊
月夜見尊荒御魂
【創建】
927年以前
【ご由緒】
由緒は定かではないが、古くは高河原(たかがわら)と呼ばれ、農耕の神を祀る神社であったという。
第60代醍醐天皇の927年(延長5年)の延喜式では外宮摂社の首位とされた。
『止由気宮儀式帳』では「月讀神社」、『延喜式神名帳』では「月夜見神社」、
『伊勢大神宮式』では「月夜見社」と記載する。承元4年(1210年)に別宮に昇格した。

明治時代に外宮別宮の「つきよみのみや」は「月夜見宮」、
内宮別宮の「つきよみのみや」は「月讀宮」と表記するようになりました。

月読宮は月読尊と荒御魂をそれぞれ別の社殿にお祀りしていますが、
月夜見宮は、月夜見尊と月夜見尊荒御魂を一つの社殿に合わせてお祀りしています。

月夜見尊は『古事記こじき』、『日本書紀にほんしょき』よると、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二柱の御親神みおやがみが、天照大御神をお生みになられ、
次に月夜見尊をお生みになられ夜之食国をお治めになるようにご委任になられたと記されています。

また、『日本書紀』には、天照大御神のご神徳は「その光華明彩、六合くにの内に照り徹るほどである」とあり、
太陽にたとえられていますが、月夜見尊のご神徳はそれに次ぐものとして月になぞらえたと考えられます.。

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お願い事は多賀宮で
平成二十九年 十一月三日参拝

伊勢神宮 外宮へ参拝させて頂きました。

神社の謎を読んで勉強してから、本も持っていき参拝させて頂きました。

外宮のお詣りのポイントを神社の謎から挙げていきたいと思います。

【三ツ石】
外宮正殿の参拝を終えて別宮に向かう道の脇に、
〝三ツ石〟と呼ばれる小さい注連縄に囲まれてある
石があります。
宮川の支流が流れていたところで、内宮にある
五十鈴川の御手洗場とおなじような場所だったであろう場所で、現在でも祭祀の際に神職などがお祓いをする場所として使われる。
その目印として注連縄が張り巡らされている。

雑誌やテレビなどでここをパワースポットと称し
右手をかざすとパワーをいただけるとされているためなのか、注連縄の中の石に向かって手をかざしている光景をよく見かけます。

しかしここの注連縄は単なる祓所の目印にしか過ぎないとのことです。(通常注連縄を張るというのは、神域でこれ以上近寄らないようにする目印です)

【亀石】
三ツ石を通り過ぎ、ちいさな橋があります。
亀の顔に見える石の橋で、気づかなまま通り過ぎてしまう人が多いですが心地よいエネルギーにあふれているとのことです。

亀というのは吉事の象徴で、昔から長寿の代表のようなものとして崇められてきました。

長寿を祈り健康を祈り、元気に伊勢をお詣りする
ことができる縁に感謝しながら亀石の橋を渡りたいところです。

【参拝順序】
多賀宮→土宮→風宮→下御井神社の順に参拝する
のがよいとのことです。

かめの橋を渡って直進すると多賀宮へ登る階段が見えて来ます。
階段の手前で右手に土宮、左手に風宮があるのですがまずは奥にある多賀宮を先に参拝するのが順序です。

正宮はトヨウケの和魂(優しい魂)に対して、多賀宮はトヨウケの荒魂(強いパワーの部分)が祀られています。

【多賀宮】
この多賀宮こそ具体的なお祈りをする場所とのことです。
何か物事を始めようとするときに、大きなパワーを
与えてくれるとのことです。

【土宮】
外宮の地主の神である大土御祖髪を祀られています。

【風宮】
元来、風宮は風雨の災害なく稲を中心とする農作物が順調に成育するように祈りが捧げられるお社でありましたが、元冦以来国難に際しては神明のご加護によって国家の平安が守られるという信仰が加わります。

【下御井神社】
石段の左手の奥にある水の神様です。
小さな社ですが、井戸がありこの水は西に位置する上御井神社から毎朝汲んで運んでくるそうです。

上御井神社への一般参拝は許されていません。
(上御井の井戸は神が住む
高天原に通ずると言われているそうです)

【御祭神】
豊受大御神
【相殿神】
御伴神(みとものかみ)三座。東に一座、西に二座を祀る。天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだま)の三座とする見解もあります。
【創建】
雄略天皇22年
【ご由緒】
外宮の鎮座の由来について、『古事記』・『日本書紀』の両書には記載がない。804年(延暦23年)に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託した。『止由気宮儀式帳』にはそれが何年のことであるという記述はないが、『大神宮諸雑事記』の第一「雄略天皇」の条に「即位廿一年丁巳」、すなわち雄略天皇21年とある。この神託を受け雄略天皇22年7月7日 (旧暦)、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大御神を迎えて祀った。
外宮の鎮座は内宮の鎮座から484年後のことであるという記述があるが、
天皇の在位期間を機械的に西暦に当てはめて計算すると、その年数が一致しない。
延喜式神名帳には「度会宮 四座」と記載され、大社に列している。
代々度会氏が神職として奉職したが、中世には度会家行が、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であり、
外宮は内宮よりも立場が上であるとする伊勢神道(度会神道)を唱えた。
また、門前町として山田が形成された。
1876年の伊勢暴動の際には、中島・浦口・常盤・大世古といった町が炎上し、
外宮でも防御態勢を取ったが、破壊や放火といった被害は受けずに済んだ。
1945年1月14日午後2時53分、外宮の神域に5か所6発の爆弾が投下され、
五丈殿・九丈殿・神楽殿・斎館で被害が発生した。
その被害は軒先と戸障子の破損や板塀の倒壊、屋根に数か所の穴が開いた程度で軽微であった。
7月28日から7月29日の宇治山田空襲では、御垣内にも焼夷弾が降り注いだが、
御垣内が火に包まれることはなかった。
後に外宮宮域から搬出された焼夷弾の残骸はトラック3台分にも及んだという。

【外宮 鳥居】


【外宮 正宮】


【外宮 三ツ石】


【外宮 亀石】
【外宮 御朱印】


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御垣内参拝はオススメです
【御垣内参拝はオススメです】

またまた「神社の謎」合田道人著に書いてあったこと紹介します。
伊勢神宮に参拝させて頂いたことのない私にとっては、大変有難く参考にさせて頂きました。


『外宮では一の鳥居に続いて二の鳥居がある。
御手水場で清めたあとにまずは社務所、神楽殿に寄りたい。

そして是非とも御垣内参拝の手続きをして頂きたいのである。
ここは神職の後ろについて、本殿を囲む垣根の内側に入って参拝することが可能なのである。

これを御垣内参拝という。
御垣内の空間は、多少鈍感という人でも全く違う氣を感じ取ることができるだろうと確信する。

普通、一般参拝者は内宮、外宮ともに正宮の南側に位置する板垣南御門内に進み、
絹糸でできた御幌(これで〝みとばり〟と読む)
〝あぁ、あの暖簾(のれん)みたいなヤツね〟、そのとおり。

その御幌が掛けられている外
玉垣南御門の前から参拝する。

大抵の参拝者、観光きはここ止まり。これより奥に進むことなく帰ってしまう。

御幌の前で参拝する、それだけでも十分ご利益はあるのだが、
どうせならさらに御幌の向こう側に立って参拝してみたい。

せっかくここまで来たのだし、この本に出会ったのだからその方法をお教えしたい。
それには造営のための寄進、つまり寄付をすることである。

「な〜んだ、それじゃあ無理じゃん」
いや、そう言わずに聞いてほしい。
寄進の額の大小により参拝時の本殿前に立つ位置は変わる。
だがその寄付金の額、上は無制限なのだが最低はなんと1,000円からなのだ。
「えっ?そのぐらいであれば、今回のお賽銭として考えていたので大丈夫」って人もいるはずだ。

ちなみに1,000円〜99,999円の参拝位置は
御幌が掛けられている外玉垣南御門の前から参拝する。
100,000円〜999,999円の参拝位置は中重御鳥居際、
さらに100万円以上は内玉垣南御門外とされている。

ある意味1,000円という金額でこの垣根内に入れることは、
ただただありがたくて仕方ないと思えるのだ。

ここの霊的な価値は値が付けられないほどのパワーだから尚更である。
だからその額は気持ちで寄進すればいいのである。

たとえ1,000円であってもいいと思うし、5,000円でも10,000円であっても100万円であってもいい。
自分の意思に従って、新しい宮造りをお手伝いさせて頂けるという気持ちで寄進することが肝要だ。

寄付すると証明書と絵葉書がついた『特別参宮章』を頂ける。
その参宮章を持って本殿に行き、本殿に向かって左側の詰所の神官に券を見せ、
特別参拝をお願いするのである。

この特別参宮章は内宮、外宮共通で御垣内参拝をさせて頂けるのだ。
それも日にちが違っていてもOK。
例えば時間の都合で外宮は今日が、
内宮はあすと思っている人でも大丈夫だということである。

詰所で記帳を済ませると、冊の扉が開けられ中に案内されるのだが、
ここで大切なのは服装である。
そのチェックは特に厳しくされるから心するこだ。
実際に参拝を拒否されたり、「その格好では無理です」と言われた友人の話もある。

男性はスーツにネクタイを付けていないとアウト。
それも派手すぎては駄目。
もちろん革靴。
和服のときは羽織、袴を着用。
普通のスーツを着ていたら男性はほとんどの場合、パスだと思っていい。

しかし問題なのは女性。女性もこれに準じた服装が求められ、洋服、和服どちらでも
構わないが靴、草履を履いていなければならない。サンダルやミュールはダメ。
清楚な感じで肌は出さず、黒か白で統一していればほぼ大丈夫だろう。
簡単に言えば礼服を着ていれば問題ないということになる。
Tシャツに上着、ジーパン穿きは絶対断られると思っていただきたい。
ジャージやトレーナーも当然だ。

実際、友人の女性は上等なニットのカーディガンを羽織っていたのだが、
「ニットはニットですので・・・・」と注意を受けたという。
だからこのために駐車場でスーツやブラウスに着替えてから鳥居をくぐるという
人もいたりする。真夏になるとスーツも大変。カンカンと照りつける太陽の下、汗だくになってしまう。
だからこそ、駐車場でお着替えということにもなるのだろうが、伊勢の大神と
これから直接に向き合うことができるのだから、そのぐらいは当然だと思ってもらいたい。

有資格者の同伴に限り、配偶者や子供は一緒に参拝することができる。

無事に入ることになったら、あとは神官の指示のとおりのお作法で御垣内参拝を行うことになる。
まずは頭下げ、塩で清めてもらう。一歩ずつ正宮に近づくにつれ、胸がドキドキしてくる。
氣が集中しながら流れている特別な場所である事に気づくからだ。
白く敷き詰められた石全体からパワーがあふれ出ているのがはっきりとわかる。

御幌の前での一般参拝の場合もそうなのだが、柏手を打ったあと具体的な願い事をしては
ならない。
「いつもお力を頂きありがとうございます」という感謝の言葉を心から述べるので十分である。』

以上「神社の謎」から抜粋いたしました。


もちろん私はスーツで出発して、御垣内参拝(正式参拝)をさせて頂きました。
すごく大きな(手のひらぐらい)玉石というのでしょうか、石の上をゆっくり
歩いてすごく緊張したことを思い出します。

一万円の寄付をしましたので、絵葉書、扇子などを頂き、平成二十九年に
参拝しましたので翌平成三十年までの間何度でも
御垣内参拝させて頂ける特別参宮章という券をいただきました。


私はこの「神社の謎」で書いてあって、普段実践していることは柏手まで打った後、
住所、名前、「お詣りさせて頂いたご縁ありがとうございます」と感謝を述べ、
「これからもお見守り下さい」とお願いしています。

稲荷神社では上記に加え「商売繁盛しますようにお見守り下さい」とお願いしています。

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二見興玉神社へ参拝(三重)
平成二十九年 十一月三日参拝

前回の話の外宮より先に行くべき神社
二見興玉神社へ参拝させて頂きました。

本を読んだことを踏まえて日の出に間に合うように
家を3時頃出発しました。
約3時間と少しかかったと思います。

神社近くに無料駐車場があったのですが、ナビがイマイチで着いたのが6時40分頃でした。
日の出予定時刻が6時50分頃だったので、駐車場は満車でした。
五分くらい離れたところにも無料駐車場があったのでそちらに停めさせて頂きました。

時期的に十一月は夫婦岩の間からは、日の出が見られなかったです。
しかし天気もよく日の出を見られてすごくよかったです。
朝早くから40人ぐらいは来ていたと思います。

【二見興玉神社 鳥居横の石碑】

鳥居を撮るのを忘れてしまいました。


【二見興玉神社 日の出】


【二見興玉神社 夫婦岩】


【二見興玉神社 拝殿】



【二見興玉神社 御朱印】

【御祭神】
猿田彦大神
宇迦御魂大神
綿津見大神(境内社 龍宮社)
大若子命(飛地境内社 栄野神社)
【創建】
天平年間(729年 - 748年)
【ご由緒】
夫婦岩の沖合約700メートルの海中に沈む、祭神・猿田彦大神縁の興玉神石を拝する神社である。
夫婦岩(めおといわ)は日の大神(天照大神)と興玉神石を拝むための鳥居の役目を果たしている。古来、男岩は立石、女岩は根尻岩と呼ばれていたが、いつの頃からか、夫婦岩と呼ばれるようになった。この名称がついた時期は定かではないが、江戸時代中期の『伊勢参宮名所図会』に大注連縄を張った夫婦岩の絵が載せられている。

1910年(明治43年)、猿田彦大神を祀る興玉社(おきたましゃ)と宇迦御魂大神を祀る三宮神社(さんぐうじんじゃ)を合祀したもので、その際に現社名に改称した。

興玉社の歴史は、夫婦岩に注連縄を張り、興玉神石の遙拝所を設けたのに始まるという。天平年間(729年 - 748年)、僧行基が興玉神の本地垂迹として江寺(えでら)を創建し、境内に興玉社を建てて鎮守社とした。後に現在の二見浦へと遷座した。

三宮神社は、元は現社境内の天の岩屋の中に祀られていたが、文禄年間に岩屋の外に移された。1910年(明治43年)に興玉社本殿に合祀された。古い参詣記には三狐(さんぐ)神社などとも記される。

1945年(昭和20年)に栄野神社を合祀した。

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外宮より先に行くべき神社
今回も「全然知らずにお参りしてた神社の謎」
合田道人著に書いてあったお話をしたいと思います。

『「内宮、外宮」だけを考えればそれでいいのだが、
本当は外宮を参る前に行かなければならない神社があるのだ。

順を追って説明しよう。まず伊勢神宮参りを決意したら、出発前に自分が住む場所の氏神様に詣でる。
「これからお伊勢さんに行って参ります。道中お守り下さい」ということだ。
そして伊勢に向かう。伊勢に着いてもすぐさま外宮ではない。

外宮に向かう前に、二見興玉神社という場所を訪ねなくてはならないのだ。

二見興玉神社の御祭神は、猿田彦大神、宇迦御魂大神、綿津見大神の三柱。

神話の中でのサルタヒコは天孫瓊瓊杵尊(ニニギ)がアマテラスから三種の神器を授かって天から降りるとき、お迎えして途中の邪悪を祓いながら暗い中を道案内した神とされる。
そのおかげで日本国、天皇家が誕生したということから善導の神として崇められる。

その神の使いとされるのが蛙。そうあの〝カエル〟だ。境内には無数の蛙の置物が並んでいるが、これらは「無事カエル」「貸した物がカエル」「若ガエル」「お金がカエル」など蛙が〝帰る〟や〝返る〟へと変じ、そのご利益を受けたという人々からの献納の数々なのである。

ここの海から見る朝焼けは素晴らしい。
海に浮かぶ夫婦岩の沖合700メートルの海中には、サルタヒコゆかりの霊石の興玉神石が沈んでいるが、その夫婦岩の間から昇る太陽の光は新たな一日の始まり、人生のスタートへの意欲を感じさせる。

二見浦の美しい海辺から遠く望む富士の山影から輝きながら昇ってゆく朝日を拝むと、思わず手を合わせたくなる。

二見興玉神社の境内にはウカを祀る天の岩屋がある。そこへ足を進めることで、伊勢参拝から頂く氣を整えてゆくのだ。
このウカこそが、外宮に祀られているトヨウケなのである。

さあ準備万端。とうとう外宮へといざなわれる時がきた。』

以上『神社の謎』から抜粋しました。

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