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eskky28

Author:eskky28
男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
いよいよ伊勢神宮へお詣り
伊勢神宮

さていよいよ次は念願の伊勢神宮にお詣りです。
家族で私だけがお詣りしたことがなく、すごくお詣りしたかったのです。

嫁さんは修学旅行で、子供達は夏休みにおじいちゃんとおばあちゃんに連れて行ってもらっていたのです。

仕事先で伊勢神宮にお詣りしたことがある人から、「凄く混むよ、駐車場も停めれないよ。夏と正月はめっちゃ混むからやめとき。電車で行き」と言われていて凄くお詣りに行くのに覚悟が必要でした。

それは熊本で御朱印を集める前から、一生に一度は伊勢神宮にお詣りしたいとは思っていました。

そして「全然、知らずにお参りしてた神社の謎」合田道人著の本と出会い、伊勢神宮のお詣りの方法(順番)を大変よく参考にさせて頂きました。

その本から紹介したいと思います。

【内宮より先に外宮へ】
伊勢神宮には内宮と外宮の二つの宮があります。
内宮、外宮にはともに多くの宮社が置かれ、正宮のほかに別宮、摂社(神社の境内の中に祀られる本殿以外の小さな社で、本殿に祀られている神に関係する神やその土地の地主神などを祀った社)、末社(本殿に祀られている神に関係しない社)など合わせてなんと125もある。
それらすべてで「伊勢神宮」とされるのだ。

読み方を間違えている人がよくいる。内宮は〝ないぐう〟でなく、〝ないくう〟、外宮は〝げぐう〟でなく〝げくう〟と読むのである。

内宮だけの参拝で伊勢参りとしてしまう人も多い。でもそれは違う。
この神宮は内宮どころか外宮を最初に詣で、その後に内宮へと参拝するのがお陰をうまくいただくコツなのだ。これは絶対に守りたいところ。

【外宮からお参りする理由】
外宮のトヨウケがこの場に鎮座したのは、アマテラスの伊勢遷座から約500年後のことだ。
ただ倭姫命(ヤマト姫)が諸国を回って、伊勢内宮にアマテラスを迎えたときすでに呼び名こそ違うが、外宮は存在していた。
そしてこの場所には土地神が祀られていたのだ。
そうしたことから敬意を表し外宮先祭が行われ、現在も外宮からお参りするようなったといわれている。

【トヨウケが外宮に祀られることなったのは】
アマテラスが鎮座したあとに延暦23年(804年)に伊勢神宮外宮の社伝によれば、雄略天皇の夢枕にアマテラスが現れ「自分一人では食事が安らかに出来ないので、丹波の比沼眞奈井という場所にある御饌(みけ)、これは天皇の食事のことだが、その食事の神である等由気大神を近くに呼び寄せなさい」と告げた。

丹波の国、京都の眞名井神社のことである。等由気大神こそがトヨウケの大神なのである。

それからというもの、本殿では一日も欠かすことなく毎朝夕二食、アマテラスとトヨウケをはじめとする祭神に御神饌をしげる儀式が行われてある。

以上「神社の謎」から抜粋しました。

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多賀大社へ参拝(滋賀)
平成二十九年 十月七日参拝

多賀大社へ参拝させて頂きました。

多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にあります。
伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれてきました。
また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。

家から高速道路で約2時間ぐらいだったと思います。
すごく大きな無料駐車場がありました。
少し神社まで離れていたので、歩いていると道に迷っていると、
地元の人が気軽に声をかけてくれて助かりました。

神社の端にある日向神社の鳥居の写真を撮っていると、夜にくると
ライトアップされててすごく綺麗ですよとまた別の方が声をかけて頂きました。
声をかけて頂くのが初めてでしかも2回もあったので、何か親近感が湧きました。

お守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、
これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされています。

日本最古の書物「 古事記」によると、この両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我国の国土、 続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。 このように、命の親神様であることから、古くから延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として信仰を集め、鎌倉から江戸時代にかけては、武家や民衆の信仰が一気に広まりました。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。


【多賀大社 鳥居】


【多賀大社 太鼓橋】


【多賀大社 摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社】
御祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)


【多賀大社 寿命石 】
寿命石は、後白河上皇に東大寺の再建を命じられた俊乗坊重源が、延命を祈願した石だと伝えられています。ご祈願の際は、用意された白石に住所・氏名を書き、石の上に置くと効果が高いそうです。

【多賀大社 御朱印】

【御祭神】
伊邪那岐命
伊邪那美命
【創建】
不明
『古事記』以前の神代と考えられています
【ご由緒】
和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」
「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、
これが多賀大社の記録だとする説がある。
ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、
国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、
『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高いとのことです。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説があります。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。
多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬されています。

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坐摩神社へ参拝(大阪)
平成二十九年 九月三日参拝

坐摩神社(いかすりじんじゃ)摂津国一宮へ参拝させて頂きました。
正式な読み方は「いかすりじんじゃ」ですが、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く
地元では「ざまさん」の通称で呼ばれているそうです。

大阪市内でもビジネス街のど真ん中でビルに囲まれている場所にありました。
家からは高速道路は使わずに25分くらいで着きました。
駐車場も4,5台停めれたと思います。

神紋は「白鷺」で、写真にも撮りましたが、植木鉢にかわいい白鷺みたいな花が咲いていました。
さぎ草はラン科の多年草で、白鷺が羽を広げたような純白の花を咲かせます。

大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が迎えてくれます。

【坐摩神社 鳥居】


【坐摩神社 三ツ鳥居】


【坐摩神社 白鷺みたいな花】


【坐摩神社 御朱印】

【御祭神】
祭神は以下の5柱で、「坐摩神」と総称している。

生井神 (いくゐのかみ) - 井水の神(生命力のある井戸水の神)
福井神 (さくゐのかみ) - 井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
綱長井神 (つながゐのかみ) - 井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
波比祇神 (はひきのかみ) - 竃神(屋敷神。庭の神)
阿須波神 (はすはのかみ) - 竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
【創建】
神功皇后年間
【ご由緒】
当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。『万葉集』の中には、難波津から西国へ向かう防人が旅の安全を坐摩社に祈る歌がある。同社の神紋が白鷺なのも、神功皇后が坐摩の神の教えにより白鷺の多く集まる場所に坐摩神を奉遷なされたことに由来する。

創建時の社地は現在と異なり、渡辺津・窪津・大江などと呼ばれたかつての淀川河口である。旧社地は遷座後に御旅所が置かれた現在の中央区石町(こくまち)に推定され、天神橋 - 天満橋間の南、近世以降「八軒家」と呼ばれる地に概ね該当する。なお、石町には摂津国の国府も置かれており、町名は国府の転訛と言われている。平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んでこの神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。

渡辺津は窪津ともよばれ、京からの船が着く熊野古道の基点でもあった。熊野三山への参詣道沿いに立っていた「熊野九十九王子」のうち、最初の「窪津王子」はこの坐摩神社行宮の場所にあったと思われる。

所在地の現在の町名は「久太郎町四丁目渡辺」と、番地ではなく「渡辺」となっている。神社と氏子が渡辺津から移転してきたことで、江戸時代から既に「北渡辺町」「南渡辺町」という町名になっており、1930年(昭和5年)に「渡辺町」となった。

しかし、1988年(昭和63年)に旧南区・東区の統合に伴う地名変更の際、「渡辺町」は統合されて消えることとなった。そこで、渡辺姓の末裔で作る「全国渡辺会」が渡辺の名のルーツである渡辺町の消滅に対し反対運動を起こした。結局市は苦肉の策により、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すことで決着をみた。

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日本語の「ひい、ふう、みい・・・」
今回も日本とユダヤのつながりを書きたいと思います。

日本人は物を数えるときに「1、2、3、4・・・・10」という代わりに、
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ、ここのつ、とう」と
いうことがあります。これは日本古来の言い方であるそうです。

しかし、日本人に「これはどういう意味ですか」「どうしてそのように言うのですか」と
聞いても「わからない。単なる言い方」という答えになってしまうと思います。

「ひい、ふう、みい、・・・」はもともとヘブル語だったと主張している人がいます。

「古事記と日本書紀」に天の女神であるアマテラスが天の岩屋戸に隠れ、
世の中が真っ暗になったという話があります。

この時にアマテラスに出てもらおうとアメノウズメノミコトが、その前で踊り女祭司のアメノコヤネノミコトが
他の神々の見守る中「祝詞」すなわち祈禱文を唱えた。
記紀には祈禱文がどのようなものだったかは記されていません。
しかし古い伝承によると「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、
とう」であったといわれているそうです。
実際今も神道の鎮魂法の祓詞としても用いられているそうです。

この言葉は日本語としてみると、特にこれといった意味はないと思われます。
ところがこれをへブル語としてみると非常によく意味の通る言葉として理解できます。

少しの訛りを修正すれば「ひぁ、ふぁ、みい、よっ、つぃぁ、ま、なーね、やぁ、かへな、たうぉ」となり、
「ヒァファ  ミ  ヨツィァ  マ  ナーネ  ヤカヘナ  タウォ」と発音されます。
意訳すれば「誰がその美しいかた(女神)を連れ出すのでしょう。
彼女が出て来るための誘いにいかなる言葉をかけるのでしょう」

つまりアメノコヤネノミコトが女神アマテラスを岩屋戸から出そうとした言葉として、ピッタリ当てはまります。

これだけではなく「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とうぉ」とも言いますよね。
これは先程の「ひい、ふう、みい・・・・」に接尾語「とつ」または「つ」をつけたものであります。
1~9には「とつ」または「つ」がつけられ、最後の「とうぉ」はそのままです。

「とつ」はへブル語で「テツェ」、「つ」はへブル語で「ツェ」になります。
「テツェ」は「彼女は出て来る」、「ツェ」は出て来て下さい」の意味になります。

祭司アメノコヤネノミコトがアマテラスにでてもらおうと祈禱文を唱えたとき、周囲の神々は
アメノコヤネノミコトの唱える祈禱文の一語一語に応答したと考えられます。

アメノコヤネが「ヒァ」と言うと、周りの神々が「テツェ」といい、「ファ」と言うとまた周りの神々が
「テツェ」と言うといった具合にです。
こうして「ヒァ・テツェ」(ひとつ)、「ファ・テツェ」(ふたつ)、「ミ・テツェ」(みっつ)・・・・・となったということです。

そして最後の「タウォ」(とうぉ)を唱える時は一同一斉に唱和したというのです。
「タウォ」とはへブル語で「彼女は来る」の意味なのです。

日本において非常に古い時代から使われていた言い方であり、
へブル語と考えるとピタリと状況に当てはまります。

「信じるか信じないかはあなた次第です」みたいな感じですね。

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日本とユダヤのつながり
今回もまだある日本とユダヤのつながりについて書きたいと思います。

諏訪の神「ミサクチ」は「イサクに由来する」の意味である。

ユダヤ人がもうやっていないような、極めてユダヤ的なことを今も諏訪大社でやっています。

アブラハムが息子のイサクを神に捧げようとしたモリヤの山(今日のエルサレムの「神殿の丘」)の
ことですが、それと同じ名前の山が日本の諏訪にある。
諏訪大社はそのモリヤの神(洩矢神)を拝むために建てられた神社です。

諏訪大社の御神体が守屋山です。そして宮司家が守矢氏というのです。
さらに旧約聖書のイサクの話を模した祭りがあります。

諏訪の守屋山の麓に十間廊と呼ばれる古代イスラエルの幕屋そっくりの場所があり、
そこで御頭祭という祭りが行われてきました。

明治4年までの祭りでは選ばれた少年が御贄柱と呼ばれる柱に縄でくくりつけられ
竹のむしろの上に寝かされ、縛られた少年の頭のすぐ後ろに神官がナイフを数回振り下ろすと
別の神官がやかましく現れると少年は解放されます。
少年は馬に乗って諸国の祝福のもととして各地で歓迎されます。

これはまさに聖書、創世記22章に記された「アブラハムによるイサク奉献」の出来事を祭り化
したものです。
選ばれたイサクは縄でくくりつけられて薪の上に寝かされ、アブラハムはそこにナイフを振り下ろそう
としますが天使が現れてその手を止めます。そしてイサクは解放され諸国の祝福のもととなります。

興味深いことに諏訪の御頭祭は別名「ミサクチ」(ミ・イサク・チ)の祭りと呼ばれています。
ヘブル語で「イサクに由来する」という意味です。
このイサクの話は古代イスラエル人にとって非常に重要な意味を持つ出来事であります。

さらに少年の神事が行われた十間廊では、75頭の鹿が首を切られ神に捧げられました。
これは北イスラエル王国の失われた10氏族の間でエジプトに下ったヤコブ一家の人数が
「75人」とされていたことに関係しているそうです。

その75頭の鹿の中には必ず耳の裂けた鹿がいたそうです。
その鹿は「神によって備えられたもの」と信じられて大切にされてきたそうです。

同様に聖書によればイサクが解放されたあと、やぶに角をひっかけている羊がいたので
アブラハムはそれをイサクの代わりに捧げたと書かれています。
やぶに角をひっかけていれば耳が裂けていたことでしょう。
その羊は「神によって備えられたもの」であったと聖書に書かれています。

日本には羊が多く飼われていないので代わりに鹿を生贄にしたのでしょう。

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日本と古代イスラエルの驚くほど似た風習
前回に引き続き日本とユダヤの関係を書いていきたいと思います。

ユダヤの正月も正月前に大掃除をするそうです。
(ユダヤ人、古代イスラエル人)
日本も正月前に大掃除をしますね。

最も神聖な場所である神社の本殿に偶像(神の姿を彫像にしたもの)がないということも注目に値します。

神殿に偶像を置かないのは世界的にも珍しく、ユダヤ教とイスラム教と神道の3つしかないというのです。

カトリックにはキリスト像やマリア像があるため
キリスト教には偶像があるという認識です。


神社の造りについてもよく似ています。
まず手水舎があり、拝殿の前(賽銭箱のある一般の人が拝する場所)、拝殿(神官が拝する場所)、本殿(一番奥の宮司のみ入れる場所)の3つに分かれています。

古代イスラエルの神殿もまた、洗盤があり、外庭(一般の人が拝する場所)、聖所(祭司が拝する場所)、至聖所(大祭司のみ入れる場所)の3つに分かれています。

神社の神官の服装も古代イスラエルの祭司のものに
よく似ています。


その他の習慣もいくつか挙げてみます。


初宮詣りの風習も同じで、日本では出産後、約一カ月経ってから神社へ初宮詣りをします。
この時子供を抱くのは母親ではなく姑などです。

古代イスラエルにも同様の習慣があります。
男子を産んだときには40日後、女子を産んだときには80日間、血の清めのためにこもり、その後宮詣りが許されました。
この時日本と同様に母親以外の人間が子供を抱きます。

産後に女性がこもることには、穢れを避けるだけでなく静養の意味もありました。

神社の供物に必ず塩や酒が添えられ、拝殿の前に鈴がかかっていること、注連縄の風習、死者を穢れと見ること、忌みの期間と清めや禊の風習、罪の観念、新年や年末の祭り、春秋の祭り、初穂や収穫の行事。

などなど数えきれないほど多くの日本の風習や文化が古代イスラエルのものによく似ています。

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日本のなかの古代ヘブライ語
今回は古代ユダヤ、イスラエルと日本のつながりを書いていきたいと思います。

色々あるのですが今回は、日本の中に残る古代ヘブライ語を挙げていきたいと思います。

「古代ヘブライ語」   「日本語」

「ヨッシャ」 「勝利」
「イール・シャローム」 「平安京」
「シャカ」 「釈迦」
「ブッダ」 「来て学べ」
「イヤサカ」 「神を讃える」
(ヤサカ→八坂神社になった)

「ハッケー ヨイヨイ ノコッタ」
「撃ってしまえ やっつけろ やっつけろ
あなたは敵を撃ち破った」

「ミヤツコ」 「地域のトップ」
「バレル」 「明らかにされてしまう」
「ダベル」 「おしゃべり」

「古代ヘブライ語」    「日本語」

「アカル」(去る、離れる) 「あける」(空ける)
「カク」(書く) 「かく」(書く)
「キブァー」(希望) 「きぼう」(希望)
「コマル」(困る) 「こまる」(困る)
「スム」(住む) 「すむ」(住む)
「スワル」(休む) 「すわる」(座る)
「トル」(取る) 「とる」(取る)
「ハエル」(輝く) 「はえる」(映える)
「ハカル」(測る) 「はかる」(測る)
「ハラー」(清める) 「はらう」(祓う)
「ハラク」(歩く ) 「あるく」(歩く)
「ハラブ」(滅ぶ) 「ほろぶ」(滅ぶ)
「ホレル」(穴を掘る) 「ほれる」(掘れる)
「ヤカッド」(焼ける) 「やけど」(火傷)
「アンタ」(あなた) 「あんた」(あなた)
「ミガドル」(高貴な人) 「みかど」(帝)
「シャマライ」(守る人) 「さむらい」(侍)
「ハケシュ」(拍手) 「はくしゆ」(拍手)
「ヘイ」(低い塀) 「へい」(塀)
「アリ・ガド」(私は幸運) 「ありがとう」
「ハラ」 「腹をたてる」
「ハヤ」 「速い」
「コオル」 「凍る」
「カサ」 「傘」
「クモツ」 「捧げ物」
「ミツ」 「蜜」
「ナク」 「泣く」

まだまだあると思いますが、とりあえず以上の
言葉が挙げられます。

まるで同じですね。不思議です。
その他考えられないほどの多くの古代ヘブライ語がそのまま日本語になり、同じ発音、同じ意味で使われています。

やはり古代ユダヤ人たち(イスラエルの失われた10氏族)は日本に来ていたのではないでしょうか。

最初私は信じられませんでしたが、こんなにも
たまたまがあるでしょうか。
偶然では片付かないと思います。


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磐船神社へ参拝(大阪)
平成二十九年 八月二十日参拝

今回は大阪府交野市にある磐船神社へ参拝させて頂きました。
またまた私の好きな饒速日命が御祭神の神社です。
すごく小さな神社でしたが、天の磐船のスケ-ルの大きさに
神秘性を感じました。

磐船神社は物部氏の遠祖神(とおつみおや)天孫饒速日命をお祀りする神社です。
天の磐船を御神体とする饒速日命降臨の聖地です。
十種瑞宝鎮魂は日本の祈祷の根本であり、饒速日尊が天照大神より授かり伝えたものです。
御神体や行場岩窟をはじめとする巨石群は古代の磐座祭祀を現代に伝え、古代の人々と同じ空間を体感できる場です。

私は行かなかったのですが、磐船神社の岩窟めぐりは巨石の隙間をくぐり岩をよじ登るハイレベルな岩窟めぐりだそうです。
転落死亡事故により写真撮影禁止になりました。一人での岩窟めぐりも禁止になったそうです。

しかしここの岩窟めぐりはものすごくレベルが高いそうです。
まずは社務所に拝観を申し込みます。
拝観料と引き換えにタスキをわたされるそうです。

社務所では、高齢の方や、子供、足腰の弱い方は拝観できませんと言われます。もちろん飲酒されている方もダメ。女性でハイヒールの人、汚れて困るような服を着ている人、極端にふくよかな方もNG。岩に描かれた→マーク以外のルートを決して通らないこと。荷物も持たないこと。夜間・雨天時・増水時は拝観不可。社務所の方の忠告は絶対に守ってください。

親切にハシゴや階段がこしらえてあるものが多いなか、ここには皆無。
→マークを頼りに、岩と岩の間に身体を滑り込ませ、
湿気で滑る岩をどんどん登って行かねばならなく、当然服も泥だらけになるそうです。

ここは神聖な神社なので遊び感覚で来るようなところではありません。
本当に大ケガしそうな岩場を登っていると真剣にならざるを得ないから遊び気分などすぐ抜けるそうです。

30分ほど突き進んでいくとその先にあるのは天の岩戸。
あの天照大神(あまてらすおおみかみ)が籠もったという岩の扉があるそうです。

是非、次にお詣りさせて頂いたときは
岩窟めぐりをしたいと思いました。

【磐船神社 鳥居】


【磐船神社 鳥居】


【磐船神社拝殿と天の磐船】


【磐船神社 磐船】


【磐船神社 御朱印】

【御祭神】
饒速日命
【創建】
不明
【ご由緒】
神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。

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