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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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石切劔箭神社へ参拝(大阪) |
平成二十九年 八月二十日参拝
石切劔箭神社(いしきりつるぎや)へ参拝させて頂きました。
親しみを込めて“さん”づけで呼ばれる石切さんの正式名は石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)。でんぼ(関西方言で、腫れ物のこと)の神様として、がん封じの願掛けに来られる方がとても多い神社です。
腫れ物系や病気の回復を願って、たくさんの方が御百度詣りをされています。
何故か個人的に大好きな神様である 「饒速日尊」(にぎはやひのみこと)が御祭神です。神武東征の神話に登場致します。
本社(下之社)から上之社へ歩いて向かいました。 神社で聞くと、狭い道で車では無理だと聞きました。 両脇にお店がつらなり狭くて凄い坂道を20~30分登って歩きました。 到着するころには、かなり汗だくになりました。
【石切劔箭神社 鳥居】
【石切劔箭神社 鳥居】
【石切劔箭神社 上之社 鳥居】
【石切劔箭神社 上之社 拝殿】
【石切劔箭神社 御朱印】
【御祭神】 上之社(生駒山中の宮山)饒速日尊(にぎはやひのみこと) 下之社(現本社)可美真手命(うましまでのみこと):饒速日尊の御子 「石切大明神」と総称される。 【創建】 伝)初代神武天皇紀元2年(紀元前658年) 【ご由緒】 創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。 石切劔箭神社の祭祀は、代々木積(こづみ)氏が務めてまいりました。この木積の姓は、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の、最有力氏族のひとつ「穂積(ほづみ)」から転じたものです。そして物部氏は、石切劔箭神社の御祭神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子孫にあたります。
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枚岡神社へ参拝(大阪) |
平成二十九年 八月二十日参拝
今回は枚岡神社(河内国一宮)にお詣りさせて頂きました。 駐車場は無料であります。石の鳥居はくぐりました。 しかし、他の参拝者についていったので、 鳥居の場所がわからずじまいで、参拝してしまいました。 駅のほうから、第一鳥居、第二鳥居とあるそうです。
またお詣りさせて頂き、鳥居からお詣りしたいと思います。
主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。 経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取・鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
【枚岡神社 参道広場】
【枚岡神社 剣の門】
【枚岡神社 拝殿】
【枚岡神社 御朱印】
【御祭神】 第一殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 第二殿 比売御神(ひめみかみ) 第三殿 経津主命(ふつぬしのみこと) 第四殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 【創建】 伝)初代神武天皇即位前3年(紀元前657年) 【ご由緒】 枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3年前と伝えられています。 神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめのたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。
※皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。
枚岡神社は、永く神津嶽にお祀りされましたが、孝徳天皇の白雉元年(はくちがんねん)(650年)9月16日に、平岡連らにより山麓の現地へ奉遷されたと伝えられています。神護景雲(じんごけいうん)2年(768年)に、天児屋根命・比売御神の二神が春日山本宮の峰に影向せられ、春日神社に祀られました。このことから当社が「元春日(もとかすが)」とよばれる由縁であります。
その後、宝亀(ほうき)9年(778年)春日神社より、武甕槌命・斎主命の二神を春日神社より迎え配祀し四殿となりました。
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続 住吉大社へ参拝(大阪) |
平成二十九年 八月十五日参拝
前回に引き続き住吉大社です。 書き忘れたのですが、嫁さんの実家に向かう途中、家族で住吉大社へ参拝させて頂きました。
「9つの神社の御朱印が頂ける中に種貸社というのがある。種を貸す?一体どういう神社なのだろう。 ここは五穀の種が授かる信仰が元になり、商売の 資本を得たり、種貸人形を受けると子宝に恵まれる信仰がある。種を貸す。種?なるほど。
「一寸法師」の話でおじいさんとおばあさんはずっと子供に恵まれなかった。それが「御伽草子」 によれば、住吉大社に詣でて子を授かったというのだ。これぞ種貸社のパワーではないのか。 書いていただいた御朱印をよく見ると種貸社の墨字の右上、奉納の字の上に絵が描かれたはんこが 押されている。それが男の子、裸ん坊の赤ちゃんのようだ。まさしくこれは「一寸法師」ではないか。 権禰宜によれば「そうですよ。住吉明神より賜った男児こそが一寸法師ですから。体が小さいのは神の申し子だからです」と話す。なるほど面白い話である。
もうひとつのパワースポットが御所御前といあ玉垣内なある玉石である。敷き詰められている玉石には「五」「大」「力」と書かれた石が混じっているのだ。この3つの石を集め、授与所で五大力特製のお守り袋を300円で購入して、その中に玉石を入れると心願成就のお守りになるとされる。
五大力とは体力、知力、福力、財力、寿力、つまり健康であり知恵が働き福の力、財力に秀で寿命をのばすという力で、水のパワーと準じて柔軟な対応力がつき、人間関係がスムーズになる。 周囲とのコミュニケーションを上手にとることができるようになるのだ。
願いが叶った場合は、自分で別の小石に「五」「大」「力」と書き記し、拾ったときの倍の個数をもとの柵の中に返すというルールがある。 その時もしっかりと本宮や摂社末社を回ったあとで、その場所へ心静かに向かうことが必要だ」 以上「全然知らずにお参りしてた神社の謎」 合田道人著から抜粋しました。
【住吉大社 五大力】
【住吉大社 おもかる石】
願いごとが叶う場合、石が軽く感じるそうです。
【ちんちん電車】
大阪では珍しい、ちんちん電車です。 天王寺から堺市の浜寺公園までの区間です。
【住吉大社 摂社 大海神社御朱印】
【たこ焼き 会津屋さん】
漫画「美味しんぼ」に掲載されていた、ソ-スなしで食べる元祖たこ焼き屋。 私は普通のたこ焼きが好きでした。
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住吉大社へ参拝(大阪) |
カーリング女子 銅メダル獲得 おめでとうございます。
平成二十九年 八月十五日参拝
今回は住吉大社(摂津国一宮)へ参拝させて頂きました。 「地元の人から「すみよっさん」とよばれる人気ある神社。 全国に2300余社を数える住吉神社の総本社で 摂津国一宮。 関西一の初詣のメッカとしても知られる」
「ここはアマテラスの誕生より前に生まれた 底筒男命、中筒男命、表筒男命の三兄弟が祀られ、後に住吉三神とよばれるようになった海の神様である」
「ここすみよっさんの御利益が多岐にわたるのは、ここが海の守護神だというだけでなく、生命のあらゆるものに影響する水を司どっているからだ」
「4つの本宮すべてが大阪湾にむいていることで、 海、水のエネルギーをしっかり受けていることが分かる」
「ここの神社のあまり知られていないパワー伝授の秘密のひとつが、御朱印帖に書いて頂ける神社の 数である。何と一度に住吉大社、大海神社をはじめ9つも墨字で書いて頂けるのだ。 一社300円を奉納すれば、一挙に9つの神社の御朱印をいただけるというわけだ。 全社書いて頂かなくても、選ぶこともできる。 御朱印集めをしている人たちにとっても、ちょっとうれしい神社なのである」
以上、「全然知らずにお参りしてた神社の謎」 合田道人著から抜粋しました。
【住吉大社 第一鳥居 正門】
【住吉大社 反橋】
太鼓橋とも呼ばれています。 現在の石の橋脚は慶長年間に淀君が奉納したと伝えられている。
【住吉大社 第二鳥居】
【住吉大社 本宮】
【住吉大社 御朱印】
【御祭神】 第一本宮 底筒男命 第二本宮 中筒男命 第三本宮 表筒男命 第四本宮 息長足姫命(神功皇后) 【創建】 (伝)神功皇后摂政十一年(211年) 【ご由緒】 住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。
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椿岸神社へ参拝(三重) |
平成二十九年 八月十四日参拝
前回に引き続き椿大神社の別宮で同じ神社内に 鎮座しております、椿岸神社(つばきぎし神社)へお詣りさせて頂きました。
アメノウズメの総本宮。 「サルタヒコの妻神であり、天戸開きの神話の中で 踊りを披露したと伝えられる芸能、芸術の祖。 芸の道を歩く人への「おかげ」を授けるため、 芸能関係者の参拝も多い。
ズラリと芸能関係者の赤い名札が奉納されている。八代亜紀、由実かおる、愛川欽也、うつみ宮土理、吉幾三、水谷八重子、藤あや子などなど。 これらの道を志す人にとってはスルーできない パワスホのひとつである。 実はその一つに合田道人の札もあるとのこと。」
「椿岸神社(別宮本殿)右側にある「かなえ滝」は、 その名のとおり、望みが叶うパワーを発する。 写真を撮って持ち歩くだけでも夢が叶うといわれるエナジーパワーは強い。」
以上「全然知らずにお参りしてた神社の謎」合田道人著から抜粋
【椿岸神社 拝殿】
【椿岸神社 かなえ滝】
【椿岸神社 御朱印】
【昼食でお蕎麦屋「空」にて】
【御祭神】 天之細女命 【創建】 (伝)垂仁27年(紀元前3年)
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椿大神社へ参拝(三重) |
平成二十九年 八月十四日参拝
今回は三重県鈴鹿市に鎮座する「椿大神社(つばきおおかみやしろ)」へ参拝させて頂きました。(伊勢国一宮) 仕事も盆休みで特に予定もかったので、 その日の朝突然、お詣りな行くことにしました。 (次の日もお休みだったので) 大阪から車で100~120分で着いたと思います。 ルートは西名阪(高速)と名阪国道(地道)で行きました。
「全然、知らずにお参りしてた神社の謎」 合田道人著から以下抜粋します。
「椿大神社はサルタヒコとその妻アメノウズメを祀る総本宮である。この神社の名の椿という字は木へんに春と書く。つまりここには木(気)を春(張り上げる)という言霊が働いている」
「二見興玉神社や伊勢内宮に近い猿田彦神社に祀られるサルタヒコは道案内の力が大きく発せられるが、こちらはそれにとどまらず、同じ道でも人生の道、わが魂の歩む道を邪魔する力を押さえ込み、地上すべてを総括する。パワーを発散する。」
「ここの御手水にはカエルが据えられている。 よく言われる若ガエルや無事にカエルだけでなく、カエルはおたまじゃくしから手や足をのばして姿を変える。そこから自由自在、状況に応じて臨機応変に対応する柔軟性を持ち、物事がうまく運ぶ人生を歩ませてくれるパワーを醸し出している。そんなエネルギーを与えてくれる。」
サルタヒコの墳墓もありました。 緑色の球体は、説明書きに何て書いてあったか 覚えていませんでした。 記憶では大変古い球体に日本地図が描かれている と書いてあった気がします。
【椿大神社 第一鳥居】
【椿大神社 第二鳥居と拝殿】
【椿大神社 サルタヒコの球体?】
【椿大神社 さざれ石】
【椿大神社 御朱印】
【御祭神】 猿田彦大神 【創建】 (伝)垂仁27年(紀元前3年) 【御由緒】 社伝によれば、垂仁天皇27年、倭姫命に下った神託により、猿田彦大神の墳墓の近くに「道別大神の社」として社殿が造営されたのを創始とする。史料における初見は、天平20年(748年)6月17日の『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』である。当社は一般に『延喜式神名帳』に記載される「椿大神社」として伊勢国一宮に比定されるが、同市一ノ宮町の都波岐神社を「椿大神社」とする説もある
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大鳥大社へ参拝(大阪) |
平成二十九年 四月二日参拝
今回は堺市にある大鳥大社(和泉国一宮)にお詣りさせて頂きました。 嫁さんの実家に行く前に、家族でお詣りさせて頂きました。 今から8年ぐらい前まで堺市で暮らしていました。 子供の初宮詣りは二人とも、この大鳥大社でした。
【大鳥大社 第一鳥居】
【大鳥大社 神馬像】
【大鳥大社 日本武尊像】
【大鳥大社 第二鳥居】
【大鳥大社 御朱印】
【御祭神】 日本武尊 大鳥連祖神 【創建】 景行天皇の御代 【御由緒】 御祭神である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は西征して熊襲(くまそ:現代の九州南部で大和王権に抵抗した勢力)を平定し、東征して東国を平定したのですが、伊吹山で病に冒されました。 そして、大和を目指し帰途についたのですが伊勢国能褒野(のぼの:三重県亀山市)で薨去されたのです。
亡骸はその地に葬られたのですが、その陵墓から魂が白鳥となって飛びたち最初に舞い降りた地が大和国琴引原(現:琴引原白鳥陵)です。 再び飛び立った白鳥は河内国古市に降りました。(現:古市白鳥陵古墳)
そしてまた飛び立った白鳥が最後に留まったのが大鳥の地で、社を建ててお祀りしたのが当社の起こりです。 当社にある千種森(ちぐさのもり)は、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われています。
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門戸厄神 東光寺へ参拝(兵庫) |
女子団体パシュート五輪新記録で金メダル獲得 おめでとうございます。
平成二十九年 三月十九日参拝
今回は門戸厄神 東光寺をお参りさせて頂きました。 私の父親がガンで入院中だったので、お参りして お守り頂いてこようと思いました。 ここは私が厄除けのお祓いをして頂いたところ でしたので、門戸厄神 東光寺にお参りさせて頂く ことにしました。
【門戸厄神 東光寺 表門】
【門戸厄神 東光寺 中楼門】
【門戸厄神 東光寺 中楼門 天井】
【門戸厄神 東光寺 南門】
【門戸厄神 東光寺 御朱印】
【本尊】 薬師如来 【創建】 天長6年(829年) 【宗派】 高野山真言宗 【山号】 松泰山 【御由緒】 嵯峨天皇の41歳の厄年にあたる天長6年(829年)、空海(弘法大師)により厄除祈願が行われた。その際嵯峨天皇は愛染明王と不動明王が一体となって厄神明王となりあらゆる厄を打ち払うという霊感を得、空海に祈願を命じた。 空海は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、高野山の天野大社、山城の石清水八幡宮、門戸東光寺へそれぞれ国家安泰、皇家安泰、国民安泰を願って勧請したが、現在残っているのは東光寺のもののみであるという。
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滋賀県大津市近郊を参拝 |
平成二十九年 一月九日参拝
今回の参拝は、休日に配達のみの仕事で 滋賀県まで行くことになり、その帰りに 参拝しようと思いました。
僕の浅い思考回路では、滋賀県=比叡山延暦寺でした。 そしてたしか日吉大社があったかなと。 大津市の神社で一の宮を調べたら、建部大社がでてきました。 あと三井寺、石山寺も考えておりましたが 時間と持ち合わせのこともあり、この2寺は 今回はあきらめました。
しかし、お寺はたいがい拝観料約700円、 駐車場代約500円ぐらいは必要になりますね。
ということで日吉大社→比叡山延暦寺→建部大社という順に参拝させて頂きました。
日吉大社 本殿など凄く歴史ある古さでした。 広い敷地だったと思います。駐車場も無料で50台停められるそうです。1/9は200円必要でしたが。 後から知ったのですが西本宮と東本宮にわかれていたそうです。多分、西本宮しかお詣りしてないと思います。
比叡山延暦寺 ロープウェイ往復切符1620円、拝観料700円でした。麓は晴れていたのですが、ロープウェイを降りたら霧がかっていて雨も降っていました。 仙人がいてるイメージでした。 雨、霧の中、良い写真がひとつもなく、お堂もたくさんあり写真を省いたりしていました。 ロープウェイで下ると麓は、やはり晴れていました。
建部大社 この神社には平安時代の末期、平家に捕らわれた14歳の源頼朝が伊豆へ流刑される途上な訪れ、 源氏再興を強く祈願し願いを達成されたことから ここは長く開運と出世、必勝の神社とされてきた。 「人生諦めずに毎日を過ごしてゆけば必ずいい結果を出すことができる。くよくよせずに時を待て」というパワーをいただけるのだ。 と「さらにパワーをいただける神社の謎」 合田道人著に載っていました。 あと建部大社の禰宜は大野神社(約車で30分のところ)の宮司の次男というこちらしいです。 ちなみに大野神社は人気グループの「嵐」のファンでごった返してるらしいです。 (嫁さんもお詣り済みでした) 建部大社の駐車場は無料で停められました。
【日吉大社 山王鳥居】
【日吉大社 御朱印】
【御祭神】 西本宮:大己貴神(大国主神に同じ) 東本宮:大山咋神 【創建】 崇神天皇7年(紀元前91年) 【御由緒】 文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという。
【比叡山延暦寺 根本中堂 御朱印】
【本尊】 薬師如来 【創建】 延暦7年(788年) 【宗派】 天台宗 【山号】 比叡山 【御由緒】 平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。
【建部大社 鳥居】
【建部大社 御朱印】
【御祭神】 日本武尊 【創建】 景行天皇46年(116年) 【御由緒】 景行天皇の46年、神勅により御妃 布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。
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増上寺に参拝 |
女子500mスピードスケートの小平奈緒選手 【金】メダル獲得おめでとうございます。 (スピードスケート女子初の金メダル、五輪新記録タイム)
平成二十九年 一月四日参拝
ご縁があり、増上寺にお参りさせて頂きました。 前回も書いたとおり東京タワーのそばにあり、 徳川家の菩提寺である。という印象でした。
実は以前から気になっている「明治天皇すり替え説」 に関係している方のお墓があったのです。 その方のお名前は和宮内親王です。 左手首のない銅像もありました。
その前に一つ説明しておきたいことがあります。
「明治天皇すり替え説」のポイントは以下のことから「なるほど」と思うことができる。(私は)
1 なぜ尊皇である長州は、孝明天皇のいる御所を襲ったのか。 2 孝明天皇は長州を恐れ京都から二度も叩き出されたのか。 3 孝明天皇暗殺説(噂は下手人の具体名まである。岩倉具視と伊藤博文である) 4 今の天皇家は南北朝以降、ずっと北朝なのだが 明治天皇が命じて皇居前に楠木正成の像を 置いた。(北朝側からすれば反逆者) 5 後醍醐天皇を祀る吉野神宮、湊川神社(楠木正成)、藤島神社(新田義貞)など「建武の中興」 関係の皇族忠臣を祀る官弊社を十五社創建している。(北朝の憎っき敵の南朝側の神社をである) 6 帝国議会でも「南朝こそ正統」という決議がなされた。明治天皇が裁断を下された。 7 明治天皇は美子皇后のことを皇太后と呼んだ(母親のこと皇太后と呼ぶ) 自分の妻でなく先帝の妻であるということになる。
以上「幕末維新の暗号」加治将一著から抜粋
数冊しか読んでいないが、鳥羽伏見の戦いの どさくさに御所を占拠してすり替えたのでは ないかと考えられている。 証拠はないので想像ですけどね。
という上記ことを踏まえて。
私がつい最近知ることになったのが、 明治天皇の前の孝明天皇の妹で、 徳川家茂に嫁がされた和宮内親王であります。
あくまで噂ですが家茂も大阪で暗殺され、 孝明天皇も暗殺され、和宮内親王も暗殺されたのではないかと噂されています。
3人とも攘夷、攘夷の人達であります。
和宮内親王のことで不可解なことを挙げていきたいと思います。
50年前に増上寺移転改葬のため 和宮内親王の墓と遺体が墓地発掘調査された。
1 和宮の左手首から先の手骨は発見されなかった。 幼少のころからなかったとは考えられないとのこと。(銅像はどれも左手首がないのである。) 2 墓詩銘に伝えられるような脚気がもとでお亡くなりになられたのではなく、何か事件に巻き込まれたのかも知れないと調査団長の方が本を出版している。 3 和宮内親王の副葬品は小さなガラス板だけであった。そして死装束もほとんど全裸に近かった。 (他の将軍の正室などの棺には、生前ゆかりの品々を大量に納められている。) ご遺体を東京に送って慌ただしく葬ったので、ゆかりの品々もなく刀で斬られた着物も入れようがなかったのではないか。 4 阿弥陀寺に安置されている和宮内親王の位牌は皇女を表す「内親王」ではなく男性皇子の 「親王」、静寛院宮でなく静寛院殿になっている。 などか挙げられます。細かいことは他にもありますがこれぐらいにしておきます。
以上「幕末 戦慄の絆」加治将一著から抜粋
すごく不可解なことが多いと思います。
【増上寺 三解脱門】
【増上寺 大殿(本殿)】
【増上寺 御朱印】
【本尊】 阿弥陀如来 【創建】 明徳4年(1393年) 【宗派】 浄土宗鎮西派 【山号】 三縁山 【御由緒】 9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。
その後、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が、実質上の開基といえる。
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。
風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
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