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eskky28

Author:eskky28
男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
當麻寺へ参拝
當麻寺へ参拝(令和二年三月二十一日)
奈良県葛城市當麻1263にある寺院です。

當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。
創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。
宗派は真言宗と浄土宗の並立となっている。
開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。
毎年4月14日(2019年より、明治期〜2018年までは5月14日)に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には
多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。
奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、
近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。
本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、
人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。



前回からの続きで、二上山雄岳から雌岳に向かいます。

予定  9時30分(道の駅)→14時頃(道の駅)
道の駅ふたかみ→葛木倭文座天羽雷命神社→二上山雄岳→大津皇子のお墓→葛木二上神社→
二上山雌岳→當麻寺→十割蕎麦『薬庵』→道の駅ふたかみ


【雌岳山頂】雄岳から少し下って行くと三叉路があるのに道案内がなく迷いそうになりました。
當麻寺の方に進みたいのに反対側の大阪方面に進んでしまっては大変なことになります。
何故か迷わず皆が進む方へ私もついて行きました。すごい下りだったので間違えて戻るのも大変なので
登りの人に聞いたら雌岳方面で合っていました。
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【山頂にある日時計】ここでおにぎりを食べました。
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【山頂からの眺め 大阪方面】
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【山頂からの眺め 奈良方面】
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【太陽の道】
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【鳥谷口古墳】雌岳から下ったところに古墳がありました。
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【傘堂】珍しいお堂がありました。
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【當麻寺 仁王門】コロナのせいなのか、ほとんど人がいませんでした。
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【仁王像 開口の阿形(あぎょう)像】
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【仁王像 口を結んだ吽形(うんぎょう)像】
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【梵鐘】国宝。無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない。
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【手水舎】
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【本堂】高野山真言宗と浄土宗が並立しています。元来は学問を修める場所だったものが、やがて真言宗寺院となり、
その後浄土宗の発展に伴い、當麻寺の浄土曼荼羅が信仰の対象になりました。
その為、當麻寺にある沢山の建物の中で曼荼羅のある本堂のみが兼帯で管理され、他は宗派ごとに分かれているそうです。
他の建物の撮影はすっかり忘れていました。国宝、重要文化財が沢山ありました。
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【御朱印】真言宗が担当の年は「蓮糸大曼茶羅」、浄土宗の時は「蓮糸大曼陀羅」と「ダ」の字が変わるそうです。
この御朱印は真言宗ということですね。宗胤院(そいにん)というところではお地蔵様の絵も御朱印と一緒に書いて
下さるそうです。寄ったのですが電話予約が必要とのことを並んでいる方に伺いました。
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【蕎麦屋 薬庵】仁王門を出てすぐのところにあります。数量限定で無くなり次第終了みたいです。
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【おしそば】十割そばを美味しく頂きました。色が変わっていたような気がしました。
日にちが立ちすぎて忘れてしまいました。
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【二上山】蕎麦を食べてから二上山を拝みながら道の駅まで歩いて戻りました。一番右が雄岳、隣が雌岳です。
登りはきつくしんどかったですが、下りになってからは気分爽快でまた山に登りたくなりました。
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【本尊】
当麻曼荼羅
【宗派】
真言宗、浄土宗
【山号】
二上山
【創建】
伝・推古天皇20年(612年)
【開基】
伝・麻呂古王(聖徳太子の異母弟)
【札所等】
新西国三十三箇所第11番
関西花の寺二十五霊場第21番(西南院)
仏塔古寺十八尊第8番(西南院)
大和十三仏霊場第6番(中之坊)
大和七福八宝めぐり(中之坊)
法然上人二十五霊場第9番(奥院)
西山国師遺跡霊場第14番(奥院)
神仏霊場巡拝の道第32番
【文化財】
東塔、西塔、曼荼羅堂、塑造弥勒仏坐像ほか(国宝)
金堂、乾漆四天王立像、木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
中之坊庭園(名勝・史跡)

【創建縁起】
当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという。
建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府太子町山田とする説がある。
以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる。


【中将姫説話】
当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」または「観経変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、唐の高僧・善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』(『観無量寿経疏』)に基づいて作画されたものとされている。なお、当麻曼荼羅の内容については別項「当麻曼荼羅」を参照。
当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。
當麻寺本堂(曼荼羅堂)に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。先述の『建久御巡礼記』によれば、当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、能、浄瑠璃、歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。
この話はよほど人気があったようで、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。

Wikipiediaより抜粋


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葛木二上神社へ参拝
葛木二上神社へ参拝(令和二年三月二十一日)
奈良県葛城市加守に鎮座する神社です。

葛木二上神社(かつらぎふたかみじんじゃ、かつらぎにじょうじんじゃ)は、奈良県葛城市の二上山雄岳山頂付近にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。二上神社、葛木坐二上神社(かつらぎにいますふたかみのじんじゃ)とも呼ばれる。



駐車場はないので、道の駅ふたかみ・パーク當麻「當麻の家」へ駐車させて頂きました。
40台ぐらい停めれそうでした。
家を7時50分頃出発し、下道で9時20分頃に到着しました。
駐車場は2,3台しか空いてませんでした。近くに公園もあるみたいで、小さなお子さん連れ家族や、
ハイキングに向かう方々など沢山来ていました。
私も参拝とハイキングを兼ねて来ました。一石二鳥です。


葛木二上神社は山上にあるので、御朱印は麓の葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしずりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)の社務所で頂けるとネットで調べました。
しかし、コロナでなのかお留守で社務所らしいところは閉まっていて頂けませんでした。
また次回頂きたいと思います。

予定  9時30分(道の駅)→14時頃(道の駅)
道の駅ふたかみ→葛木倭文座天羽雷命神社→二上山雄岳→大津皇子のお墓→葛木二上神社→
二上山雌岳→當麻寺→十割蕎麦『薬庵』→道の駅ふたかみ


【三社の社号標】葛木二上神社、葛木倭文座天羽雷命神社、加守神社
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【葛木倭文座天羽雷命神社の手水舎】
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【手水舎にある看板】
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【鳥居?】
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【灯篭と階段と拝殿】
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【拝殿】
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【扁額】
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【拝殿の奥に飾られている蟹の額】
天忍人命は彦波渚武鵜草葺不合命生誕のときにその胎便(「蟹」と呼ばれる)を掃除したという神で、その子孫は蟹守(かもり)氏(掃部、加守、狩森などとも)と称した。当社の社家も蟹守氏である。附近の「加守」という地名も蟹守に由来するもので、当社は江戸時代まで「加守明神」と呼ばれていた。
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【猪よけの金網の柵】神社脇から登山道に続きます。
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【大津皇子のお墓】
飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。
異母兄の草壁皇子の政敵とみなされていて、天武天皇の崩御後、謀反の疑いをかけられ自害させられている。
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【大津皇子のお墓の看板】
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【葛木二上神社 拝殿】
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【二上山 雄岳山頂】
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【祭神】
豊布都霊(とよふつのみたま)神と大国魂(おおくにたま)神を祀る。豊布都霊神が石上神宮に、大国魂神が大和神社に勧請されたという伝承がある。豊布都霊神については布都御魂の名が有名だが、何故「豊」が名前に付くのかは不明。また、武雷神と同神とされる。大国魂神は国津神の大将軍とされる。
『神社要録』には「武甕槌命、大国主命」、『神祇志』には「紀豊布都霊神、大国神」と記載されている。元々は二上山の2つの山頂・雄山と雌山にそれぞれ男神・女神が祀られていたものとみられる。


【歴史】
創建の年代等は不詳である。二上山には石器の素材となる讃岐岩(サヌカイト)の層があり、古くから周辺に人が住んでいたものとみられる。文献の初出は、『日本三代実録』の貞観元年(859年)正月27日条、当社に従五位上の神階を授けるという記述である。延喜式神名帳では「大和国葛下郡 葛木二上神社二座」と記載され、大社に列している。
当麻寺中之坊所蔵の「当麻寺付近絵図」には二上山の雌岳に神蛇大王(竜王)を祭る社もあったことが記されており、現在は中之坊鎮守として遷座され、境内稲荷神社末社に竜王社の小祠となったとの伝承がある。当社との関係は不明。
近世には当社は「岳の権現」と呼ばれ、二上山からの水流を利用する数十か村の岳郷の氏神であった。明治6年(1873年)4月に郷社に列格した。

【創建】
不詳
個人的には、ウガヤフキアエズの誕生のときに掃除したという神で、その子孫は蟹守(かもり)氏(掃部、加守、狩森などとも)と称した。当社の社家も蟹守氏である。附近の「加守」という地名も蟹守に由来するもので相当に古いと思います。
確かウガヤフキアエズの末子が神武天皇になるはずです。

【社格等】
式内社(大2座)
旧郷社

以上Wikipediaより抜粋

長くなってきたので、次回にします。
次回、二上山の雌岳と當麻寺を書きます。

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龍田大社へ参拝
龍田大社へ参拝(令和2年一月四日)
奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1に鎮座する神社です。

龍田大社(たつたたいしゃ)は、奈良県生駒郡三郷町立野南にある神社。
式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「龍田神社」。風の神(風神)として古くから信仰を集める。


ようやく参拝させて頂きました。
以前、ナビに打ち間違え龍田神社に参拝させて頂いていました。
龍田大社と言えば、花火を両手に持っている写真をみたことがあります。(有名なんでしょうか?)
大阪の家から下道で約90分で到着しました。
駐車場(無料)は約20台ぐらい停めれたと思います。

参拝後、次に箸墓古墳に参拝させて頂きました。
卑弥呼のお墓か?ともいわれてるかと思います。
龍田大社から約40分で到着。たぶん国道(大通り)沿いに、10台ぐらいの無料駐車場がありました。


『日本書紀』でやまとととひももそひめが、夜しか会いにこない大物主神を怪しんで朝に顔をみようとのぞいたら
へびがいて、御諸山(三輪山)に登って行きました。
それを見て、悔いて座りこんで箸がささって亡くなったと載っているとのことです。

飛騨の口伝ではそのヘビが出雲神教のおおたたねこの息子であり、
その子供を身ごもってしまい、のっとろうとしている出雲神教正体を知ったので悩んだ挙句、
箸をついて流産させ亡くなられたと書いてあったような気がします。


風鎮大祭
七月第一日曜日の行事
例大祭と同じ意味合いのお祭りで、年間祭事中、最も重儀です。
行事は祭日1週間前から前日までの、1日2度の御饌祭(みけさい)*に始まり、
結願日(けちがんび)である7日目に風鎮大祭が行われます。
祭典後には、剱舞や民踊などの神賑奉納行事が行われ、
火のごちそうである「風神花火」をお供えし風鎮大祭の締めくくりとなります。
*御饌祭:朝食・夕食をお供えすること



主祭神
天御柱命(あめのみはしらのみこと)
国御柱命(くにのみはしらのみこと)
龍田の風神と総称され、広瀬の水神と並び称された。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。

社格等
式内社(名神大2座)
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社

創建
(伝)第10代崇神天皇年間

本殿の様式
春日造

歴史
概史
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。
国史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国平群郡に「龍田坐天御柱国御柱神社二座 並名神大 月次新嘗」として、二座が名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。
明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において「龍田神社」として官幣大社に列した。
紅葉の名所としても有名である。摂社龍田比古龍田比売神社の祭神である龍田姫は秋の女神とされ、古来より多くの歌に詠まれてきた。

【箸墓古墳】
箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選の1つに選定されている。

概要
纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。築造年代は3世紀末から4世紀前期とする説もあるが、これは卑弥呼が死亡したとされる3世紀中期との時期にずれがあり、また古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっている。

しかし、周辺の周壕から出土した土器の考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説もあるものの、近年炭素14年代測定法では50-100年程度古く推定されることが明らかとなっている。墳墓からは種々の特殊埴輪類が出土しており、また周壕の基底部から馬具(木製の輪鐙)が出土していることから、4世紀中期以降の可能性もある。

現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。

名の由来
『日本書紀』崇神天皇10年9月の条に、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)

また、築造について日本書紀は記す。

「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。

大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも 」と。

なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と神話における説話との間に大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛の説もある。

被葬者
宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。その根拠としては、

この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致することとしている。定説では、魏・晋時代の一尺は24.3センチメートル、一里は1800尺=300歩であり、魏・晋時代の1里は約435メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となる(日本では、これを長里と呼ぶ説がある)。
後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること。この点は調査により当初から前方後円墳であったことがわかり否定されている。
大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること。
一方これに対する反論もあり、根拠としては、

日本では、その旅程記事などから一里約76メートル(これを短里と呼ぶ)とする説も唱えられており、魏志倭人伝で距離表示に短里が用いられているとすれば直径は約30メートルとなる。またこれだけ巨大な前方部が無視されている合理的な説明がつかない。
もっとも早い蓄造であっても並立王朝説などに対しては全く反論にならない上、早くとも3世紀後半という卑弥呼没年との築造年代のズレも問題がある。
殉葬跡が存在せず、箸墓古墳と同時期に築造された古墳は全て有棺有槨であるなど、倭人伝の記述と全く一致していない。
といったものがある。

このような議論があり、意見の一致を見ていない。

白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる[のに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。宝賀寿男は古代氏族研究を通じて古代においても男性優位であった状況を踏まえ、女性陵墓説を退けて実質的な王権設立者である崇神天皇の真陵説を唱えている。

奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を280~300年(±10~20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており、C14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることが判明したことから、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低くなっている。いずれにせよ、現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりである。
Wikipediaより抜粋



【鳥居】
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【社号標】
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【変額】
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【重要な石でしょうか?結界が張られています】
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【手水舎】
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【手水舎の龍】
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【初春用の手水】
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【あの狛犬】
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【うんの狛犬】
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【拝殿】
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【本殿】
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【風の言霊】
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【末社  白龍神社】
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【末社  龍田恵比須神社】
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【末社  三宝稲荷神社】
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【末社の看板】
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【大日本帝国海軍  軽巡洋艦 龍田慰霊碑】
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【御朱印】
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【桜井市周辺地図】
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【箸墓古墳の鳥居】
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【箸墓古墳の鳥居と石碑】
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【宮内庁の看板】
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【箸墓古墳の稜線】
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【箸墓古墳の側面】
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【箸墓古墳の側面からみたところにある石碑】ここで15,16人ぐらいの団体に写真撮影を頼まれました。
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龍田神社に参拝
令和元年 九月十五日 龍田神社へ参拝
奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6に鎮座する神社です。


本日(10/05)は久しぶりに近くの六甲山の中腹の風吹岩まで
ハイキングに行ってきました。すぐの岩場の登りが今までで一番きつかったです。
たぶん原因は、阪急電車の神崎川、園田間で人身事故があり二駅手前の西宮北口という駅で
電車が止まりました。目途が立たないとのことで降りて歩いて行くことにしました。
隣の夙川駅に着く前に電車が開通したので、約1時間かけて隣駅からまた乗りました。

これがきつかったですね。隣駅まで遠すぎでしたね。

【いつもの保久良神社に参拝】
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【参道からみた瀬戸内海】
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【下ったところの駅前でお茶】
コーヒーフロート飲みました。甘くて癒されました。
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前回の廣瀬大社の後に、スマホのナビに龍田神社と入力して到着しました。
本当は龍田大社に参拝させて頂く予定でしたが、何かのご縁です。

駐車場がなく地図で探すと離れたところに無料駐車場があったので、
そちらに停めさせて頂きました。徒歩10分ぐらいの龍田公園無料駐車場でした。
暑かったので、汗だくになりました。

【猫坂という交差点名の看板】
変わってますね、猫が多いのかな?
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【鳥居と社号標】
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【手水舎】
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【あの狛犬】
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【うんの狛犬】
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【拝殿】
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【楠大明神と御神木】
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【末社?】
奥  白龍大神、市杵島姫命
右  廣田神社 粟島神社 祇園神社
左  事代主神(恵美須)
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【御朱印】
お孫さんが作られた栞(折り紙)を付けて下さっていました。
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【主祭神】
本殿   天御柱大神
      国御柱大神
右社殿   龍田比古大神
        龍田比女大神
左社殿   天児屋根大神
        外三大神

【創建】
分かりませんでした。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳以前になりますかね。

【社格等】
式内社(小)
旧県社

【ご由緒】
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は2座。
同帳では「龍田比古龍田比女神社二座」と記載され、
元々の祭神は龍田比古神・龍田比女神の2柱であることが知られる。
これに関して、龍田大社から天御柱命・国御柱命の2神が勧請され、
元々の祭神は忘れられたとする説等がある。
『大和志』では、龍田大社(三郷町立野)の本宮に対して当社を「龍田新宮」とする。
社伝では、聖徳太子が法隆寺の寺地を探し求めていた際、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、
「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。
私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、
鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では
大和国平群郡に「龍田比古龍田比女神社二社(二座)」と記載され、式内社に列している。
明治維新後、神仏分離によって法隆寺から分離し、境内にあった寺院関連建物は全て破却された。
明治4年(1871年)には三郷町立野の龍田神社(現在の龍田大社)の摂社となった。
大正11年(1922年)3月に龍田大社から独立し、近代社格制度において県社に列している。
Wikipediaより抜粋

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廣瀬大社に参拝
令和元年 九月十五日 廣瀬大社へ参拝
奈良県北葛城郡河合町大字川合99に鎮座する神社です。

式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「廣瀬神社(ひろせじんじゃ、広瀬神社)」。


2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮したひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。

テレビのニュスで見た事がありました。

昨日、参拝させて頂きました。良い天気で暑かったです。
地道で家から約90分で到着しました。
20台ぐらい停めれそうな無料駐車場がありました。

対となる龍田大社も参拝させて頂こうとしていたのですが、
私の早とちりで龍田神社とナビで検索しており、家に帰ってから御朱印をじっくり
拝見していると違うことに気が付きました。
まあこれも何かのご縁ですかね。

いつか龍田大社にも参拝させて頂きたいです。


【第一鳥居と社号標】
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【御由緒看板】
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【第一の参道アスファルト】
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【御祭神看板】
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【あの狛犬】
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【うんの狛犬】
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【第二の参道 砂利】内宮みたいに木洩れ日がキレイでした。
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【祓戸社】心身の穢れを祓い清めた後に廣瀬大社を拝します。
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【手水舎】
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【手水舎の龍】
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【第二の鳥居】
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【拝殿】
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【寄った拝殿】
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【神馬舎】
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【たちばなの木】
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【日露戦争の戦利品のロシアの大砲】
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【祖霊社】
廣瀬大社に関係する祖霊と大国主命が祀られていました
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【日の丸大明神】すごい木ですね。稲荷社です。
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【日吉社】
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【御朱印】
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【主祭神】
若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)」とも。社伝では伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、
伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神とする。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。

【脇殿神】
櫛玉命(くしたまのみこと)
社伝では饒速日命を指す。社家の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、
社家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社の饒速日命社がある。

穂雷命(ほのいかづちのみこと)

【創建】
(伝)第10代崇神天皇9年
(前89年)

【社格等】
式内社(名神大)
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社

【ご由緒】
鎮座地は、高田川と一緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが
合流する地点であり、このことから水神を祭る。
社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、
水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化しタチバナが数多く生えたことが天皇に伝わり、
その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。
龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、
大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国広瀬郡に
「広瀬坐和加宇加乃売命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、
名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。
永保元年(1081年)に最高位の正一位の神階を受けている。後の二十二社の一つともなった。
明治4年、官幣大社に列格した。第二次大戦以降、廣瀬大社と称するようになった。
Wikipediaより抜粋

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