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eskky28

Author:eskky28
男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
賀茂別雷神社(上賀茂神社)に参拝
賀茂別雷神社(上賀茂神社)に参拝
平成三十年九月二十三日に参拝
京都府京都市北区上賀茂本山339に鎮座する神社です。


賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社。
通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。
式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。

【賀茂別雷神社 境内案内図】
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【第一鳥居】
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【神馬舎】
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【第二鳥居】
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【細殿と立砂】
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【立砂の御由緒】
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【金がきれいな細殿の一部】
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【手水舎】
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【楼門】
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【中門 参拝に並んでいる列】
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【岩上】
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【岩上の御由緒】
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【紫式部歌碑】
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【睦の木と御由緒】
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【横から見た睦の木】
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【願い石】
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【願い石の御由緒】
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【御朱印】
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【主祭神】
賀茂別雷大神

【神体】
神山(神体山)

【創建】
(伝)天武天皇7年(678年)

【社格等】
式内社(名神大)
山城国一宮
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社

【本殿の様式】
三間社流造

【ご由緒】
京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた
古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。
賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として、
京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。
また、社報「上賀茂」が年2回発行されている。


創建については諸説ある。
社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。
『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、
それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。
丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。
玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。
国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、
他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。
延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、
大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。
『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、
名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。
弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。
Wikipediaより抜粋

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北野天満宮に参拝
北野天満宮に参拝させて頂きました。
平成三十年九月二十三日に参拝
京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町に鎮座する神社です。

北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。
旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
神紋は「星梅鉢紋」。
通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。
福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。
近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。

災難、厄除け、学問の神を祀る神社として、全国から受験生、修学旅行生の参拝が絶えません。

大宰府天満宮をはじめとする全国の天満宮、天神社、北野神社、菅原神社など
約12000社の総本社になります。


この日は急にふら-と参拝することにしました。
息子の高校受験もあるので、北野天満宮と以前から参拝をさせて頂きたかった
上賀茂神社、下鴨神社へ参拝させて頂くことにしました。


【奥の山に大の字(大文字焼き)】
見えにくいですが奥の山の中腹に大の字が。
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【第一鳥居】
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【第二鳥居】
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【第三鳥居】
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【撫牛】
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【楼門】
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【手水舎】
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【三光門】
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【三光門の扁額】
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【拝殿】
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【拝殿の欄間に刻まれた牛】
「天神さんの七不思議」」のひとつ。
境内の牛の像はどれも伏せていますが、拝殿に刻まれた牛だけはなぜか立ち姿であります。
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【御朱印】
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【主祭神】
菅原道真公

【創建】
天暦元年(947年)

【社格等】
二十二社(下八社)
旧官幣中社
別表神社

【ご由緒】
右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって左遷され、延喜3年(903年)に大宰府で没した後、
都では落雷などの災害が相次いだ。
これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、
朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。
天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、
5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。
それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、
現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、
朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(藤原時平の甥であるが、
父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。
正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。
以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
以来、北野天満宮は幕末の神仏分離令まで三院家(松梅院など)の社僧が、代々神官を務めた。
中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。
だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから
文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。
境内西側には史跡「御土居」がある。
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、
寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。
「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。
旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理(国家神道)を脱したあとである。
Wikipediaより抜粋


今週の木曜日の朝からかなり喉が痛くなり、鼻水、鼻つまりがはじまり
とうとう花粉症になったかな-と思ってましたが、土曜日あたりから青ばなが
でてきたので風邪だったんだろうと思っています。
現在も鼻つまり、少し体も重く感じ、若干だるく、頭も若干痛いです。
本当は本日、サッカ-仲間の方と岐阜城へ行くことにしていたのですが、
私の体調と天気も昨日が雨だったので延期してもらいました。
かわりに本日はお墓参りをしてきました。


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石清水八幡宮へ参拝
平成三十一年 一月五日 石清水八幡宮へ参拝
京都府八幡市八幡高坊30に鎮座する神社です。

本日2/11もボルダリングしてきました。
最近はほとんど成長はしておらず、毎回同じような課題を登っています。
(というか登れていませんが・・・)
根気よく長く続けて、少しずつ成長して楽しみたいと思います。


宇治から大阪への帰り道にあるので、最後に参拝させて頂きました。
あんなにも山に登るとは思っていませんでした。
膝が心配でしたが無事でした。しかし代わりに翌々日まで筋肉痛になりました。


旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。
また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。

平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請された神社で、
京都盆地南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座する。
皇室からは遠国の宇佐神宮に代わり二所宗廟の1つとして崇敬されるとともに、
京都の裏鬼門(南西)を守護する神社の代表格として鬼門(北東)の延暦寺とともに重要視された。
武家からは特に源氏が源義家が当社で元服したこともあって武神として信仰し、
源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。
創建以来、当社は境内の護国寺と一体となる宮寺形式をとった。
往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、その様子は山麓の社殿である高良神社を
八幡宮と勘違いしたという『徒然草』の話で知られる。
その後、明治維新の神仏分離において仏式は排除された。
仏式で行われていた放生会もまたその際に「石清水祭」と名を変えたが、
現在も同祭は大祭として葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられる。
境内は国の史跡に指定されており、大きく分けて本宮のある山上の上院と、
頓宮や高良神社のある山麓の下院とから成る。また、本社10棟の建物が国宝に指定されている。
「やわたのはちまんさん」と呼ばれ親しまれている。


【第一鳥居と社号碑】
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【第一鳥居】
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【第一鳥居の扁額】
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【頓宮殿の門】
年に一度の「石清水祭」で、本殿から神様が遷られる重要な社殿です。
鳥羽伏見の戦い(1868年)で一度焼失し、現在の社殿は大正4年(1915)に造営されました。
平成の大修造(2010年~2011年)によって、桧皮葺であった屋根は銅板葺に葺き替えられています。
何か分からず写真は撮っていなかったです。
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【頓宮殿の朱色門】
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【高良神社】
兼好さんの『徒然草』第52段に、石清水八幡宮が登場します。
ある仁和寺のお坊さんが、かねがね石清水八幡宮に参拝したいと思っていました。やっと念願が叶って一人で出かけたのですが、男山のふもとにある極楽寺や高良神社(こうらじんじゃ)が八幡宮だとすっかり思い込んで、山には登らず、帰ってきてしまいました。そして仲間に、「お参りを済ませた人が山へ登って行ったのだが、上に何かあったのだろうか。知りたかったけれど、神社に参拝することが本意なので、山までは見ませんでした」と語ったのです。
その山上にこそ石清水八幡宮があったのですが、とんだ思い込みで、肝心の八幡宮にお参りできなかったという話です。兼好さんは、このお坊さんの話から、「少しのことにも案内人がほしいものだ」という感想を述べています。
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【第二鳥居】
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【参道(坂道)】
なだらかですが、かなりながい坂道が続きます。
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【第三鳥居】
ここで登りの坂道は終わります。汗だくでジャンパーも脱ぎました。
こちらをくぐると、通称「勝負石」と呼ばれる勝運の石「一ツ石」があり、
その他、二ノ鳥居の前にある“源頼朝ゆかりの松”や、くじ運の御利益があるとされる「大扉稲荷社」、などあったそうですが
知らずに素通りしていました。
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【手水舎】
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【南総門】
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【国宝の社殿】
本殿の二棟は、現存する八幡造りでは最大にして最古の建物で、幣殿・舞殿・楼門・廻廊・武内社などから成ります。
本殿の中に鎮座する武内社は、武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)が祀られています。武内宿禰命は、応神天皇、神功皇后に側近として仕え、300歳以上生きたという伝説があり、延命長寿の神として信仰されています。
現在の社殿は、1634年徳川家光によって造営されたものです。
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【社殿ズーム】
八幡造りの本殿は、楼門を中心に、大鳥が両翼を広げたように廻廊が延び、2階の檜皮葺の屋根と瓦葺きの屋根とが調和して、荘厳で華やかな美しさがあります。軒には極彩色の虎や龍の彫刻が施され、八幡様のお使いである神鳩の飾り金具が光っています。よく見ると右側の鳩は少し口を開けています。阿吽の狛犬の役目を果たしているそうです。
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【裏参道】
帰りは裏参道に誘導されました。後ろを振り返った写真です。急な階段が続きます。
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【御朱印】
八の字が鳩になっていませんでした。ご縁があれば頂けるそうです。

と書いていたのですが、ご指摘を頂きました。
現在は鳩の字で書いて欲しいとお願いすれば
皆さん書いて下さるそうです。
石清水八幡宮 御朱印で検索すると書いてありました。
私が持っている本には運がよければと書いてありました。
ご指摘ありがとうございました。

私が頂いた後のことですが、以下のようなことを初めて見かけました。
御朱印を書いて下さる方が、大あくびをしているのを見ました。後ろ向くか隠して頂きたかったです。

今回から初めて外で写真を撮り、ラインカメラというアプリで編集して台紙をつけてみました。
夜、家の中で撮るよりいいのかなと思いやってみました。
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その他、知らなかったスポットがありました。次回は必ず見たいと思います。

【信長塀】
本殿の左側、西総門(重文)に連なる塀は、織田信長が寄進したと伝えられる「信長塀」です。
瓦と土をいくつも重ねて分厚く作られており、銃撃から守り、耐火・耐久にも優れていたといわれています。

【御神木】
本殿の左に、1334年、楠木正成が必勝祈願に参拝した時に、奉納したと伝えられる大クスノキです。
樹齢700年近いご神木です。

【石清水社】
東側の参道から少し降りた男山の中腹に、石清水社があります。石清水八幡宮の摂社で、山上の八幡大神より古く、天之御中主神(あめのみかなぬしのかみ)を祀っています。
冬に凍らず、夏に涸れない霊泉とされる清水が今も湧き出ており、石清水八幡宮の社号の由来となったところです。

【主祭神】
八幡大神
(誉田別命、比咩大神、息長帯姫命の総称)

中御前:誉田別命 (ほんだわけのみこと)
第15代応神天皇の本名。
西御前:比咩大神 (ひめおおかみ)
宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の3柱を指す。
東御前:息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと)
神功皇后の本名。

【創建】
貞観2年(860年)

【社格等】
国史見在社
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社

【本殿の様式】
八幡造

【ご由緒】
貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国、
宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、
翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。
「石清水」の社名は、男山に既に鎮座していた石清水寺(現・摂社石清水社)から[要出典]とも
、男山の中腹から湧き出ている"石清水"からともされる。
また、元々男山の麓に鎮座していたのは和気氏の氏寺であった神願寺(和気清麻呂の墓があったと伝わる)であったが、
空海ゆかりの高雄山寺を神護寺に改めて新たな氏寺にした際に元の神願寺に
八幡神を勧請することで新たな位置付けを与えようとして
行教や清和天皇の後見人である藤原良房に働きかけたとする説もあるが、
神願寺の位置については諸説あるために現時点では可能性に留まる。
石清水八幡宮が創建されると薬師如来を本尊とする石清水寺はその神宮寺となり、
貞観4年(862年)名称を護国寺と改めてより神仏習合の度合いを増していった。
天慶2年(939年)、伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得る[1]。皇室・朝廷からは、
京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護鎮護の神、王権・水運の神として篤く崇敬され、
天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。
中世以降は勧請元の宇佐神宮に代わって、伊勢神宮と並び二所宗廟の1つに数えられる。
また清和源氏の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などの源氏諸氏族から氏神として崇敬されたため、
武神・弓矢の神・必勝の神とされた。これら源氏によって、
当社の分霊は源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鎌倉の鶴岡八幡宮など、
数多くの八幡宮に勧請された。
幕末までは神仏習合の宮寺として「石清水八幡宮護国寺」と称し、
東寺(教王護国寺)・清水寺・比叡山延暦寺・仁和寺・鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・相国寺・大安寺など
多くの寺院と深い関係を持った。また伊勢平氏も当社を重んじ、
平正盛の造営の功や平清盛ら伊勢平氏の臨時祭での演舞が知られる。
江戸時代まで護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山48坊」と呼ばれる宿坊が参道に軒を連ねたといい、
寛永の三筆である松花堂昭乗も当社に仕える社僧であったことが知られる。
慶応4年(明治元年・1868年)3月12日に明治政府の神仏分離令により、
神号を「八幡大菩薩」から「八幡大神」と改めた。
1871年(明治4年)に近代社格制度において官幣大社に列する。
1883年(明治16年)には、勅祭社となった。
社号は、1869年(明治2年)8月に「男山八幡宮」に改称したが、
1918年(大正7年)1月に「石清水八幡宮」へ復し、現在に至っている。
なお、神宮寺であった護国寺は廃仏毀釈によって廃寺とされたが、
護国寺住職の道基は1869年(明治2年)に本尊の薬師如来像と十二神将像を淡路島の東山寺に移している。

Wikipediaより抜粋

前回の2/3の記事でブログを始めてからちょうど1年でした。
2/11の橿原神宮の紀元祭(建国記念日)の式典に参列させて頂くことから
思い立って記録にもなるので始めました。妙に思い出し懐かしくなりました。
長く続けられている方々は、本当に尊敬してしまいます。
本当に大変ですもんね。秘訣は楽しむことですよね。

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平等院鳳凰堂へ参拝
平成三十一年 一月五日 平等院鳳凰堂へ参拝
京都府宇治市宇治蓮華116にある寺院です。

平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。
平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。
本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。
琵琶湖国定公園エリア内に位置している。
Wikipediaより抜粋

宇治神社からは歩いてすぐに朱色の橋があり、それを渡ればそこが平等院でした。
その橋は宇治橋と思っていたのですが、違って朝霧橋という橋でした。

【朝霧橋】
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【「寺標(じひょう」というお寺の名前が彫ってある石柱】
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【正門(表門)】
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【鳳凰堂 右45°】
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【鳳凰堂 正面】
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【鳳凰堂 本尊 阿弥陀如来坐像】薄っすらと拝見出来るはずです。
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【茶房 藤花のお抹茶】
う~む、苦かったです。
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【鳳凰堂 背面からの鳳凰】 
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【浄土院】
鳳凰堂の裏側にありました。
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【浄土院の看板】
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【平等院の御朱印】
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【浄土院の御朱印】
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【本尊】
阿弥陀如来
【創建】
永承7年(1052年)
【宗派】
単立
【山号】
朝日山
【開基】
藤原頼通、明尊(開山)
【御由緒】
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、
平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。
現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で
嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、
天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。
道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。
これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫たり、園城寺長吏を務めた明尊である。
創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。
翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
Wikipediaより抜粋

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宇治神社へ参拝
平成三十一年 一月五日 宇治神社へ参拝
京都府宇治市宇治山田1に鎮座する神社です。


宇治神社(うじじんじゃ)は、京都府宇治市宇治山田にある神社。
式内社で、旧社格は府社。
隣接する宇治上神社とは対をなしています。

もともと宇治神社は、宇治上神社と二つで一つの存在でした。
分離される明治以前は、宇治神社を「下社」・「若宮」、宇治上神社を「上社」・「本宮」と読んでいました。
また、両社を合わせて「宇治離宮明神」(八幡宮)と称しました。

宇治上神社とは目と鼻の先でして、徒歩5分くらいでした。
駐車場からはすごく近かったです。

【社号碑】
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【あの狛犬】
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【うんの狛犬】
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【手水舎】
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【吐水口】
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【鳥居】
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【中門】奥が本殿。拝殿は向かいにあった建物で社務所と思い
写真には撮らなかったです。
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【御朱印】
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【主祭神】
菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、
兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
本殿には、菟道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)が祀られている。

【創建】
不詳

【社格等】
式内社(小)
旧府社

【本殿の様式】
三間社流造

【ご由緒】
菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、
宇治地域と関連が深い人物である。
郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。

郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。
中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、
異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。
ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。

『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、
『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。
解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。

事実、宇治上神社では「応神天皇」と「仁徳天皇」も一緒にお祭りされていますが、
宇治神社は菟道稚郎子命の一柱だけを手厚くお祭りしています。

Wikipediaより抜粋

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