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eskky28

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男、47才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
伊雑宮へ参拝(内宮の別宮)
平成二十九年 十一月三日参拝

伊勢神宮の内宮の別宮の伊雑宮へ
参拝させて頂きました。

〝本当の伊勢神宮はここにある〟という話もあります。


伊雑宮(いざわのみや、正式名:伊雜宮)は、三重県志摩市磯部町上之郷にある神社。
式内社(大社)論社で、志摩国一宮。
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。
度会郡大紀町の瀧原宮とともに、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。

伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮(志摩国)のみ。
また神田を持つ唯一の別宮である。
10社ある内宮別宮の中で荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位とされる。

一般に、伊雑宮を志摩国一宮とする。
しかし、志摩国一宮は鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異論もある。

かつては丹後とともに同じ丹波国であった但馬に「天之日矛」(あめのひぼこ)という
神を祀っている出石神社があります。
記紀によると天之日矛は渡来人で新羅の王子であったといっています。



私にはすごく興味をひいた話を以下に紹介いたします。
どこまで信憑性があるのかわかりません。
「信じるか信じないかはあなた次第」ということですかね。


『飛鳥昭雄氏と三神たける氏による『失われたキリストの聖十字架「心御柱」の謎』(学研、 297 ページより)には
興味深い情報が記されている。

伊雑宮は、伊勢神宮の 10 社ある別宮の一つと考えられてきたが、実は本当の価値を隠され てきたらしい。

1679 年、江戸において『旧事本紀大成経』なる書物が刊行された。
伊雑宮の神庫から出て きた秘伝であるとして、当時のインテリを中心に僧の潮音、長野采女
、広田丹斉などが喧 伝し、爆発的に広がったという。

この題名に含まれる『旧事本紀』は、一説によると聖徳太子が蘇我馬子に編纂させたもの
である。内容は、『古事記』や『日本書紀』に含まれなかった同時代の情報が記されている
ため、中世においては、記紀と並んで神道の根本神典『三部の神経』のひとつと考えられてきた。

だが、江戸時代になって儒学者の林羅山が『旧事本紀』を偽書としたため、評価は一転失 墜した。
徳川家綱も焚書を命じ、この世から抹殺された。

そのような中、1670 年に『旧事本紀大成経』31 巻本が刊行され、
続いて先の『旧事本紀大 成経』72 巻本が世に出る。

内容は一貫して、「物部氏」の正当性が記されている。

伊雑宮のもっとも旧い神官の一族的矢氏が物部氏であるためであるかもしれないが、
世間 の注目を集めたのは、伊勢神宮に関する記述であった。

曰く、「本当の伊勢神宮は伊雑宮である」。

これは、本家の伊勢神宮の猛反発を招いたという。

伊雑宮という分家が、本家に対して「本当の本家は自分だ」というわけだから、争いを巻 き起こすのも当然だった。

しまいには朝廷も乗り出す事態になった。結果、『旧事本紀大成経』は偽書であるというこ とで一件落着となった。

今でもかつてのような記紀に匹敵する根本神典とみなされていない。

しかし、飛鳥氏と会った八咫烏のリーダー大烏は、伊雑宮が内宮と外宮に匹敵する第 3 の 伊勢神宮であると断言した。

つまり、『旧事本紀大成経』の主張と一致するのだ。

これは、何を意味するのか。

藤原氏による物部氏の封印と関係している。

事実上記紀を編纂した藤原不比等が、何らかの目的で伊雑宮を隠し、伊勢神宮を内宮と外 宮の二宮にした。

飛鳥氏と八咫烏の会話がある。



「なぜ伊雑宮を本宮からはずし、別宮のひとつとして世間から隠したのです か」
「貴殿はどう思う」
「それは・・・」 ・・・ 「伊雑宮が隠された理由、それは奥義だからです」
「貴殿のいう奥義とは、祭神のことか」
「はい」
「伊勢神宮の本当の祭神は造化三神だが、それは隠されておらん。記紀に、 ちゃんと記されておる」
「ならば、奥義は伊雑宮そのもの。伊勢神宮が三宮から成り立っていること を隠すために、伊雑宮を封印しました」
「・・・」(303-304 ページ)


以上の箇所を読んで私には思い当たるふしがあった。

1995 年に伊勢神宮を訪れた際に、内宮と外宮を結ぶ参道に立っている灯篭にユダヤの六芒 星がついているのを見た。

後で調べると、伊勢神宮曰く、それはユダヤではなく「伊雑宮」の社紋であるという。

どうして伊雑宮の社紋がここにあたかも「忘れるなよ」と言わんばかりになぜ付けられて いるのか。

既述のとおり、伊雑宮は 10 宮ある別宮の一つである。それなのに、なぜこのような格別の 扱いを受けるのか。

理由は、伊勢神宮の第三の宮だからだ。

もともと伊勢神宮は、3 つの宮から成り立っていたのだ。

外宮と内宮の心御柱が正中から西北・東南に外れているのは、伊雑宮を指し示すためだと いう。(304 ページ)

では、なぜ藤原不比等は伊雑宮を隠したのだろうか。

それは、おそらく物部氏を消すためだろう。

八咫烏によると、物部氏は、徐福の子孫。徐福は、ユダヤ出身といわれる秦の始皇帝の血 族で、
イスラエル 12 支族のヨセフ族。

ユダヤ色そしてキリスト色を消すために、藤原氏は、伊雑宮を隠したのでは。

友人の川口氏は、1988 年にたまたま訪れた籠神社の別宮真名井神社でユダヤのマークを発見した。

彼はそのとき、自分の先祖が建てたこの神社がユダヤであるならば、自分もユダヤ人に違 いないと悟った。

同行の日蓮宗のお母さんも、それを悟り、クリスチャンになった。

後に、籠神社の宮司海部氏は、自分の氏族は物部の中心であり、籠神社も真名井神社も物部だと言った。

籠神社と、伊勢神宮の内宮と外宮、そして、伊雑宮を結ぶとまっすぐの直線になる。

そして、籠神社にダビデの星があり、伊雑宮にもダビデの星がある。

八咫烏によると、この両方の神社は、阿吽だという。

阿吽とは、アルファとオメガ、つまりイエス・キリスト。

さらに、伊勢神宮のご神体の最初の上陸地点が籠神社だとも。

伊勢神宮のご神体は、籠神社から長い年月をかけて伊勢神宮にたどり着いた。

そして、最初にそのご神体があった場所は、伊雑宮であったという。

そのご神体とは、十字架だった。

十字架は、伊雑宮にあったのだが、その後、内宮に移された。

現在は、十字架の上についた罪状書きだけがある。これを八咫烏は「首」と呼んだ。
そし て、この首こそが、十字架よりも重要なご神体であるとも。

籠神社は物部、そして、伊雑宮も物部。伊勢神宮のご神体の移動は、すなわち、物部の移 動でもあった。
つまり、実は、日本の中心神社伊勢神宮は物部の神社。

藤原氏は、それを隠したかった。

私は、藤原氏が「蘇我氏は廃仏派の物部氏を滅ぼした仏教派で、悪党である」との印象を 与えたと推定する。

そして、日本書紀において、「自分こそはその悪党を大化の改新のクーデターで滅ぼした英 雄である」
と描こうとしたのではないか。

すなわち、自分こそ真の神道派、天皇家の神社伊勢神宮の支持者であると。
自らの政権の正当性を示すためにこのような細工をしたのではないかと考える。

その場合、伊雑宮が真の伊勢神宮の第 3 宮であることがばれると自説にほころびが出る。

そこで必死に隠したのだが、物部氏は正中はずし、そして、灯篭の六芒星において真理を 暗示した。

いろいろと情報を集め、論証の必要があるが、私は、日本の原宗教はユダヤ系キリスト教 だと考えている。

その事実が、百済の王族を先祖に持つ藤原氏によって巧妙に隠されてきたと推察する。 』

以上、ネットで伊雑宮から出てきたお話でした。
色々な見方があるのですね。おもしろい。

4/1に念願の籠神社へ参拝させて頂きましたので、近くご紹介させて頂きます。

【伊雑宮の鳥居】


【伊雑宮の御神木?】


【伊雑宮の拝殿】


【伊雑宮の遷宮前の拝殿跡】


【伊雑宮の御朱印】

【御祭神】
天照大御神御魂
【創建】
804年以前
【ご由緒】
鎌倉時代成立とみられる『倭姫命世記』によると、伊勢神宮の内宮を建立した倭姫命が
神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、
伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して伊雑宮を建立したとされる。
神宮ではこの説を採るが、一般には『倭姫命世記』が史書とされないこと、
また該当箇所は伊雑宮神官が後世に加筆したとされることから、創建は不詳とすべきである。
また、近世以前の志摩国では、伊雑宮周辺の土地のみが水田による稲作に適したことから
当社が成立したとする説や、志摩国土着の海洋信仰によるとする説などあるが、定説ではない。
804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』に、
「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載があるため、それ以前から存在したとわかる。

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瀧原宮(内宮別宮)へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

伊勢神宮 内宮 別宮の瀧原宮へ参拝させて頂きました。

距離感を書くのを忘れていました。
私のこの日の動きです。
記憶もあいまいですので、だいたいの時間です。
駐車場はすべて無料でありました。猿田彦神社は有料で時間制でした。

二見興玉神社→外宮(二見興玉神社から車で25分)
外宮→月夜見宮(徒歩5分)
月夜見宮→猿田彦神社(月夜見宮から車で10分)
猿田彦神社→内宮(徒歩10分)
内宮→月讀宮(内宮から車で5分)
月讀宮→倭姫宮(内宮から車で10分)
倭姫宮→瀧原宮(倭姫宮から車で40分)
瀧原宮→伊雑宮(瀧原宮から車で60分)
伊雑宮→天岩戸(内宮から車で20分)(伊雑宮から神宮への帰り道にあります)
天岩戸→朝熊岳金剛證寺(内宮から車で15分)

【隠されたパワ-スポット、瀧原宮】
遥宮として崇敬され内宮外宮より歴史が古いという、
瀧原宮とその隣に建つ瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)は
隠れたというより隠されたパワ-スポットといっていい場所みたいです。

倭姫が大河の瀧原の国に氣を感じ、建てられた瀧原宮は凛とした佇まいに品格すら備わっている感じでした。
瀧原宮は内宮の雛形ともされ、〝ミニ内宮〟とも呼ばれたりしているそうです。
〝本当の伊勢はここにある〟ともいわれてきた場所だそうです。

瀧原宮は倭姫が大和国からアマテラス大神を祀るため、伊勢まで旅した最後、つまり伊勢神宮に
アマテラス大神を鎮座させる直前に祀っていた社。
いわば最後の〝元伊勢〟ともいうべき場所なのです。

五十鈴川同様、清流で手を洗い、口をゆすぐ御手洗がある強力な聖地なのですが、
ここは導かれる人以外はあまり訪ねることがないそうです。
確かに参拝されていた方たちは入れ違いも含めて、8~10人だったような気がします。


遷宮ブ-ムの人混みから一種隔絶された神域なのであります。

鳥居から凄く樹齢の古い大きな木が、参道の両脇(まるで深い森の中)にあり、
そこを抜けると奥に4社の建物が見えてきます。
ここでもお詣りする順番が大切なポイントとなります。

まずは本宮の瀧原宮、その後に瀧原竝宮をお詣りしてから、3番目に
若宮神社、最後に長由介(ながゆけ)神社の順にお詣りします。

隣へ隣へとお詣りしがちなので、順番には氣をつけましょう。

以上、『神社の謎』から抜粋致しました。

【瀧原宮の鳥居】


【瀧原宮 拝殿】


【瀧原宮 御朱印】

【御祭神】
天照大御神御魂
【創建】
804年以前
【ご由緒】
内宮(天照大御神)と荒祭宮(天照大御神荒魂)の関係である。
すなわち瀧原宮は天照皇大御神の和魂(にぎみたま)、
瀧原竝宮は天照皇大御神の荒魂(あらみたま)を祀るとされる。

瀧原宮の、正確な起源はわからない。
本宮は、倭姫命が内宮よりも先に天照大御神を祀った場所という伝承がある。
『倭姫命世記』によると、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が、宮川下流の磯宮(いそのみや)より
天照坐皇大御神(天照大神)を祀る地を探すために上流へ遡ったところ、
宮川支流『大内山川』の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので、
草木を刈り新宮を建てた。だが天照皇大神の神意により、
現在の内宮のある伊勢市宇治館町に新宮(五十鈴宮)を建てたため、
天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったとされる。
神宮ではこの説を採る。
なお天照大神を過去に祀っていた場所を元伊勢と呼ぶが、別宮とされたのは瀧原宮だけである。
別宮とされた理由は不明であるが、ヤマト王権が勢力を南下させるにあたり重視した説などがある。
804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』には、
天照大神の遙宮(とおのみや)と記述されており、それ以前からあったと考えられている。
皇太神宮儀式帳では瀧原宮1院1号で、延喜太神宮式では別号とされているため、
創建当初は瀧原竝宮は瀧原宮に含まれ、804年から927年の間に独立したと考えられている。

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倭姫宮(内宮別宮)へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

前回の続きで伊勢神宮です。
次に詣でたのが外宮に近い倭姫宮に
参拝させて頂きました。

倭姫は奈良の大和国から数国を経て、現在の伊勢神宮にアマテラスをお祀りし伊勢神宮を創建したとされる。

御祭神の倭姫は第11代垂仁天皇の第四皇女で、
日本武尊(ヤマトタケル)の叔母であります。

その姫を祀る神社として大正時代に別宮に
認められ、伊勢神宮125社でもっとも新しい社
であります。

この宮は生きていることへの感謝が湧き上がってくるような力がみなぎっています。

困ったことがあったり、どちらが良いか決め兼ねているような時こそ、ここを訪れてみると良いそうです。
結果がすぐに出てきたり、思いあかんできたりすることが多いそうです。

さらに自分のためだけではなく、他人のために動く、働くという力があります。

祭祀や神職、摂社や末社、御料など神宮の基礎を作ったのが倭姫といわれています。
(御料とは天皇が使用する衣服や器、飲食物などを指します)

どこまで信用できるかは分かりませんが、
飛騨口碑では出雲神道(シラギ神崇拝教)に
アマテラス大神の「八咫鏡」を狙われていたとのことでした。
八咫鏡は皇位の印で持っている人が天皇になるのです。

出雲は大和朝廷を脅かす勢力をつけていたので、
「八咫鏡」を奪われないように逃げ回り、倭姫命は
あちこちと天照大神を祀る地を探して廻り伊勢に至ったのです。

伊勢には飛騨王朝末期に下山して住みついた人々が多く、天照大神を賛仰する人が大勢いて守ってくれたので伊勢の地に神宮が定まったとのことです。

またいつか飛騨口碑やウエツフミのことも書いていきたいと思います。

【倭姫宮 鳥居】


【倭姫宮 拝殿】


【倭姫宮 御朱印】

【御祭神】
倭姫命
【創建】
1923年(大正12年)
【ご由緒】
伊勢神宮において、内宮と外宮と合わせ別宮は荒祭宮、多賀宮、月讀宮、土宮、月夜見宮、瀧原宮、伊雑宮、風日祈宮、風宮など14宮あるが、そのうち創建が明確であるのは倭姫宮1宮のみで、1923年(大正12年)11月5日ともっとも新しい。

倭姫宮は、内宮と外宮を結ぶ御幸道路の中ほどの倉田山に鎮座し、倭姫命をお祀りしています。緑のあざやかな倉田山の西側には、神宮徴古館じんぐうちょうこかん・農業館、美術館、神宮文庫等があり、この辺りを「倭姫文化の森」といいます。

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月讀宮へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

前回の続きで伊勢神宮です。
次に詣でたのが月讀宮に参拝させて頂きました。

その前に私は詣でてないのですが、内宮の荒祭宮を詣でた後、時間によっては内宮の中にある
子安神社、その奥にある大山祇神社を詣でるとよいと『神社の謎』に書いてありました。
子安は安産の神、大山祇(オオヤマツミ)は山の神であります。

内宮を出てすがすがしい気持ちで五十鈴川をまた渡ります。駐車場のある裏手の小高い場所に、
饗土橋姫神社(あえどはしひめ)という小さな社があり、伊勢の旅の安全を守っている神様です。
無事に伊勢神宮を詣でることができたことへの感謝と、残る帰路の安全をお願いしましょう。

内宮前の雑踏をひっそりと守り眺めているこの神社は、やさしく見守るという大切なのに
忘れがちな心を復活させる力があるそうです。
内宮を抜けたあと最初に手を合わせるべき場所であります。

そこを参ったあとは宇治橋から五十鈴川に沿って続く約800メートルの美しい石畳、
伊勢の旧参宮道である、おはらい町通りに出ます。
参拝後に観光を楽しむ人たちで年中賑わっています。


【参拝順番を間違えられない月讀宮】

内宮の境外の別宮として外宮の月夜見宮と同じく月讀宮は訪れたい。
こちらが男神とされる神社である。
ここに祀られているのはアマテラス大神の弟のツキヨミであります。
アマテラス大神が明るさの象徴であるなら、弟のツキヨミは陰の象徴とされています。

月讀の讀、これは黄泉の国、つまり死の国の支配者とも考えることができる。

『日本書記』ではまだ神が天から下る前、アマテラス大神からツキヨミは保食神(ウケモチ)と
対面するよう命ぜられた。
そのときウケモチは口から飯を出したので、ツキヨミは「汚らわしい」と怒り剣で刺し殺す。
その死体からは牛馬や蚕、稲などが生まれ、これがそれぞれ穀物の起源となるという話が見られます。

アマテラス大神はその凶行を聞き、「汝、悪しき神なり」と怒り、以来日と月とは一日一夜、
隔て離れて住むようになったということです。
これが「日月分離」、姉弟仲違いの理由だといいます。

しかし『古事記』では同じく食物神のオオゲツヒメを殺すのは、アマテラス大神、ツキヨミの弟の
スサノオの役目になっています。
『古事記』の中でツキヨミは、誕生の項以外ほとんどでてこないのです。

以上のことなどからツキヨミとスサノオを同一神と見る向きもあります。

スサノオといえば、アマテラス大神の逆鱗に触れて出雲の国に追放される。
出雲は黄泉の国がある場所です。〝黄泉の国〟に行ったスサノオの〝黄泉が〟、
ツキヨミの〝ヨミ〟と同一視されるゆえんでもあります。

いつも参考にさせて頂いている『神社の謎』の著者の合田道人氏は
別宮の中で一番心を奪われる宮は、ここ月讀宮であるそうです。
そのパワーとオーラはさすが内宮境外の別宮最高位だけのことがあるそうです。


さて、月讀宮は敷地内に4つの内宮の別宮が並んで立っています。
ここは参拝の順番が難しいのです。参る順番を間違えると逆効果になるそうなのです。
右から順でもなく左から順でもありません。

まずは鳥居に向かって右から2番目の宮の月讀宮からです。
ここは「お詣りに詣りました」とご挨拶をします。

次に向かっていちばん右のツキヨミの荒魂を祀る宮です。
ここで「お願い事をします」
この月讀荒魂宮の氣は何者にも負けない思い、ライバルに競り勝とうとする強いパワ-を
秘めているそうです。

次に向かって右から3番目の父イザナギの宮。

最後に母イザナミの宮の順に参拝します。


私がお詣りさせて頂いたときは、先に20代ぐらいの女性2人(日本人と白人)がお詣りしていて
大声で泣きながら長時間、宮の前で手を合わせていました。
特に月讀宮とイザナミの宮がすごかったです。
白人の女性は宮から離れた後ろのほうで正座をして待っていました。

抜かして御朱印を頂いていると、2人も社務所に来ました。
何か自然とこみ上げてくると宮の人と話ていました。

【五十鈴川】


【おかげ横丁】


【月讀と月讀荒魂宮】


【イザナギの宮とイザナミの宮】


【月讀宮 御朱印】

【御祭神】
月讀宮:月讀尊(つきよみのみこと)
月讀荒御魂宮:月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
伊佐奈岐宮:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊佐奈弥宮:伊弉冉尊(いざなみのみこと)
【創建】
804年以前
【ご由緒】
由緒は定かではないが、第50代桓武天皇の804年(延暦23年)の大神宮儀式帳に「月讀宮一院、正殿四区」で、一囲の瑞垣内に祀られていたと記されており、別宮4社あわせて「月讀宮」と呼ばれていた。第56代清和天皇の867年(貞観9年)に伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮の宮号が与えられた。
第60代醍醐天皇の927年(延長5年)の延喜式によれば、この時代には伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮に瑞垣をめぐらし一院とし、月讀宮と月讀荒御魂宮が同様に一院となっていたとされる。1873年(明治6年)より、4社とも個別の瑞垣を持つ現在の形になった。
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いよいよ内宮へ参拝
平成二十九年 十一月三日参拝

いよいよ内宮へ参拝させて頂きました。

またまた『神社の謎』から内宮の参拝のコツを
紹介したいと思います。

およそ2000年前の垂仁天皇26年(紀元前4世紀)に創始されたといわれる社は、
元は皇室のみ参拝が可能な場所でありました。
それが徐々に庶民へと広がり江戸から現代まで日本の総氏神として崇拝されてきました。

宇治橋は俗世から神の領域、聖界への架け橋という感じがする。
ここは右側通行である。
とうとう神の国への一歩だ。鳥居で一揖。敷き詰められた玉砂利からは、
早くも独特のパワ-を感じさせる。

歩いていくと火除橋が見えてくるが、明治以前はここが内宮の入口だった。
右手に五十鈴川の水を汲み上げた手水舎があり、ここで手を洗い口をゆすぐと第一鳥居。
かつてはここからが神域だったのである。

ここからの空気が〝パン〟と変わることに気が付く。

【御手洗場】
右手に御手洗場が見えてくる。(本来はこの五十鈴川こそが御手洗場である)
五十鈴川へと坂道を下っていき、もう一度身も心も清めてからお参りの準備を
したいものである。

必ず川辺まで下り、そこで二拍手し、改めて手と口を清める。
そして正宮へと進んでいくのだが、正宮に参る前に必ず参拝すべき場所がある。

【滝祭神】
それは『お取次ぎさん』である滝祭神(たきまつりのかみ)である。
五十鈴川の御手洗場近くで五十鈴川の水神を祀っている。
観光客たちにそのまま一緒について歩いていくと、見落としてしまいがちである。

川から上がってくるとすぐに右手に折れるのである。
ここが古くからお取次ぎさんと呼ばれる特殊な神社である。

正宮を詣でる前に、名前と住所、参拝に来たことを報告することで、アマテラスに
「○○が参りにきました」と先に伝えてくださるという箇所である。

そこで取次をお願いし、そのまま進むと道が左右に分かれる。
左手に向かうと正宮なのだが、先に右手に曲がり、橋を渡る。

【風日祈宮】
風の神、別宮の風日祈宮へとまずはご挨拶に伺う。
アマテラスは太陽の神、つまり日の神イコ-ル火の神ともされる。
風は火の力を助けるから、風の氣を十分に受けてから正殿に向かうことで、
力を大きくさせてくれるのである。
これも参拝のコツである。

運のいい人かお導きがあるときは、神様の使いである鹿に出会えるかもしれません。

【正宮では感謝】
とうとう正宮に参拝である。
太古から変わらぬ姿で日本人を見守ってきた穏やかで雅やかなアマテラスの神氣がキラキラしている。
階段を上り外宮でいただいた『特別参宮章』を差し出し御垣内へと進む。
アマテラス大神が鎮座する神前に向かってとうとうお参りするのである。
周りの空気がまたもや〝パ-ン〟と変わった。
何ともいえぬ神々しい氣にのまれそうになる。

大きく二礼して、大きく二拍手。
外宮同様、ここでこまごましたお願い事は断じてしないようにする。
「日々感謝しています。ありがとうございます」
「とうとうこちらにお参りすることができました」
と心で唱えるだけでよく、何はともあれ、感謝なのである。

全く違う氣が流れている空間を前にして「○○して下さい」などという
チンプな願い事が口からでてくるはずがない。
「ありがとうございます」の感謝の念しか思い浮かばなくなっている自分に
気づくはずである。

日々生きていることへのお礼と「この場所に来るとことができ、ありがとうございます」と
報告するのである。

【お願いごとは荒祭宮で】
次にアマテラスの魂が活動的になった状態を祀っている荒祭宮へと向かいます。
ここの魂の宮こそが、人の願いをすべて叶えてくれる神なのだ。
ここで具体的にお願いをするのである。

荒祭宮へ向かう途中の階段の真ん中あたりに
お踏まずの石と呼ばれる石があり、
それを見つけ出し一礼すると願いがより聞き入れられる。
荒祭宮ではしっかりと時間をかけてお願いごとを
したい。

以上、『神社の謎』から参拝のコツでした。

ここから駐車している猿田彦神社へ、おはらい町通り、おかげ横丁を通って歩いていきます。
私はせっかくなのでカキフライ定食を食べて帰ろうとしたのですが、11時からといわれ諦めました。
その時はまだ10時半頃でした。
伊勢うどんの店は並んでいる店もありました。

内宮には八咫鏡があり、その裏にはヘブル語で
「エヘイェ アシェル エヘイェ」と書かれているという説があるそうです。
もし公表され説のとおりなら、日本のルーツが明らかになりますね。
英語で「I AM THAT I AM 」、
日本語で「我は有りて在るもの」という言葉らしいです。

これは旧約聖書の神髄で、神というものの本質を
述べているとのことです。

「存在しているけど見えない、しかし、いるんだよ。あるんだよ。」
つまり、見えないものを見えるような心がけをする。
見えないものにこそ、真の実在がある。
という直訳になるそうです。

深いですね。何か日本的な考えな気がします。


【内宮 鳥居 宇治橋】


【内宮 滝祭宮】


【内宮 正宮】


【内宮 荒祭宮】


【内宮 御朱印】

【御祭神】
天照坐皇大御神(天照大御神)
【創建】
垂仁天皇26年
【ご由緒】
天孫・邇邇芸命が降臨した際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していた。八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後各地を移動した。
垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 3]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)。この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。
なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』[注釈 4]によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。

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