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プロフィール |
Author:eskky28
男、47才、A型 趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史) 日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)
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上一宮大粟神社(阿波国一宮)へ参拝(徳島) |
平成三十年 四月二十九日参拝
上一宮大粟神社(阿波国一宮)へ参拝させて頂きました。 徳島県名西郡神山町神領字西上角330に鎮座しています。 式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ。 旧社格は郷社。新四国曼荼羅霊場第七十三番札所。
八倉比売神社から車で約30分ぐらいでした。
徳島県に入るとお遍路されている方をちょこちょこ見かけました。
無料駐車場が10台ぐらい停めることが出来ました。
少し急な不揃いの苔の生えた石段(古そうでした)を上り、境内に行きます。 すると正面に光と共に古そうな拝殿が現れました。
ここがやっぱり阿波国一宮かなと思うほどいい雰囲気でした。 3社とも思いましたが・・・。
社務所が見つからず、他府県ナンバ-の参拝者の方たちしか 見かけられず、御朱印は断念しました。
【上一宮大粟神社 第一の鳥居】
【上一宮大粟神社 第一の鳥居 扁額】
【上一宮大粟神社 五角形の石碑】 他の写真は載せていませんが、阿波一宮の3社ともに五角形の石碑がありました。 いずれも天照大神、大己貴命と彫られています。他3面はなんて彫られているかは忘れました。
【上一宮大粟神社 第二の鳥居と神門】
【上一宮大粟神社 第二の鳥居 扁額】
【上一宮大粟神社 第二の鳥居そばの「あ」の狛犬】
【上一宮大粟神社 第二の鳥居そばの「うん」の狛犬】
【上一宮大粟神社 第二の鳥居と神門の奥の参道】
【上一宮大粟神社 参道奥の石段】
【上一宮大粟神社 石段から見えた拝殿】
【上一宮大粟神社 手水舎】
【上一宮大粟神社 拝殿】
【上一宮大粟神社 拝殿】
【上一宮大粟神社 拝殿 扁額】
【上一宮大粟神社 拝殿 天井】
【上一宮大粟神社 本殿】 拝殿奥の赤い建物。
【徳島ラ-メン 西食】 ネットで探しました。ラーメンの写真を見て決めました。
【徳島ラ-メン 西食の中華そば】 とんこつ醤油だったと思います。めっちゃ美味しかったです。
【御祭神】 大宜都比売命 (おおげつひめのみこと) - またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと) あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としているが、 史料によっては天石門別八倉比売命・大粟比売命は配祀神であるとしている 【創建】 不詳 【ご由緒】 社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から 馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
『延喜式神名帳』に記載される名神大社「阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社」の 論社の一つである。天石門別八倉比賣神社は神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願所となり、 元暦2年(1185年)には正一位の神階を授けられた。 平安時代には、現在の徳島市一宮町に当社の分祠として一宮神社が創建された。 明治3年(1870年)、社名を「埴生女屋神社」と改められたが、氏子の請願により、 明治28年(1895年)に現在の上一宮大粟神社となった。 Wikipediaより抜粋
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卑弥呼の墓?八倉比売神社(阿波国一宮)へ参拝 |
平成三十年 四月二十九日に参拝
八倉比売神社(正式名称:天石門別八倉比売神社)に参拝させて頂きました。 徳島県徳島市国府町矢野531に鎮座しています。 鎮座する杉尾山自体を神体とする。
式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ。 旧社格は県社。 他の論社は上一宮大粟神社、一宮神社であります。
創建の年代は不詳であるが、社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。 社殿裏手には五角形の磐座がある。一説には卑弥呼の墓であるという。 近くに「天の真名井」と呼ばれる井戸があり、現在は「大泉神社」として祀られている。 Wikipediaより抜粋
こちらも阿波国一宮。「天照大神の葬儀の様子や卑弥呼の墓があるなんて 歴史も古そうで本当は一宮はこちらなのかな?」とか、「そういえば剣山も イスラエルの失われたア-クが隠されているな」とか、を思いながら向かいました。
大麻比古神社から車で40分ぐらいだったと思います。 スマホナビで近くまでくると鳥居があったのですが、駐車場がなかったので 参道横の道路を車であがっていくと(丘みたいになっていました) 突き当たりに「弥生時代頃の住居を再現したような公園」の 駐車場に着きました。30台くらい停められる無料の駐車場でした。
神社がどこにも見あたらなかったので、そこに車を停めて歩いて鳥居のほうへ 向かっていると参拝帰りっぽいおばあさん(ご近所っぽい感じでした)に神社はどこに あるのですか?と伺ったら別れ道をまだ上って行くとおっしゃっていました。 「おみくじを引きなさい」と言われてたので、普段は引かないのですが引きました。
『大吉』でした。全て大吉なんかな?とも思いましたが素直に嬉しかったです。
駐車場もあるということなので車で向かいました。 鳥居のところで邪魔にならないように無理矢理停めていると、 地元のおじさん(私もおじさんですが60くらいの方でした)が、 参拝から帰られてきて、私に「いろいろ調べてきたのかい? (そのとき私はクリアファイルを持っていました) 霊感ある?奥の院の五角形の石積の祭壇は凄いよ」と教えて下さいました。
もちろん、「霊感はないです、霊感あるんですか?」と聞いたら おじさんもないと言ってました。 「ないんかい!」と心の中で突っ込んでいました。
ひと気のない場所でひとりでいると、なんか気持ち悪い、 怖いときもありますよね。特に夜など。それは霊感ではない?ですよね。
鳥居から急な石段になります。5分くらい急な石段を上ったと思います。 上りきって、左手の手水舎で清めて、拝殿で参拝をし、隣の稲荷社に参拝をして さあ写真撮らせて頂こうと思ったら、スマホを車に忘れてきてしまいました。 ナビとしてメ-タ-横に置いたままでした。
また、あの急な石段を下りて上るのか-とガクっとなりました。 『膝が無事でありますように』と祈りながら取りに行きました。 無事境内に戻って来れ、写真撮影をしてから奥の院の五角形の石積の祭壇 に参拝してまいりました。
【邪馬台国四国説】 邪馬台国が徳島にあったという説については、昭和51年(1976年)に 発刊された『邪馬壱国は阿波だった』において本格的に紹介された (邪馬「臺」国ではなく、誤字とみなされていた「壹」にすることで“やまい”と読ませて、 阿波との関連性を高めている) 四国説では、天照大神=卑弥呼とみなし、高天原も阿波にあるという展開となっている。 また「魏志倭人伝」に記載されている方角や距離などの条件に 最も合うのが四国であるということも、根拠としている。
【八倉比売神社 鳥居】
【八倉比売神社 黒木鳥居?】
【八倉比売神社 鳥居の扁額】
【八倉比売神社 急勾配の石段】
【八倉比売神社 境内】
【八倉比売神社 「あ」の狛犬】
【八倉比売神社 「うん」の狛犬】
【八倉比売神社 手水舎】
【八倉比売神社 拝殿と拝殿前の狛犬】
【八倉比売神社 拝殿】
【八倉比売神社 拝殿前「あ」の狛犬】
【八倉比売神社 拝殿前「うん」の狛犬】
【八倉比売神社 本殿】 この写真では分かりにくいですが、神陵を削って本殿を建てています。
【八倉比売神社 稲荷社】
【八倉比売神社 奥の院】
【八倉比売神社 奥の院 五角形の石積の祭壇】 卑弥呼のお墓?
【八倉比売神社 御朱印】 神社からは少し離れた家が社務所になっていました。
【御祭神】 八倉比売命 - 天照大神の別名であるとする、大日孁女命 【創建】 不詳 【ご由緒】 数ある邪馬台国論争の中に、「邪馬台国は阿波だった」 という邪馬台国阿波説がある。 その根拠や検証の過程は割愛するが、その説によると、 邪馬台国の女王卑弥呼の陵墓は徳島市の矢野神山(気延山) 南陵の八倉比売神社にあるという。 八倉比売神社は、正しくは正一位延喜式官幣大社天岩門別八倉比売神社 (あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)といい、 祭神は天照大神。邪馬台国阿波説によると、卑弥呼とは“日の巫女”であり、 大日霊女命(おおひるめのみこと)、つまり八倉比売神社の祭神天照大神のことだと説いている。 矢野神山自体をご神体とし、山や岩、 木に神が宿るとする古代信仰の形を今に伝えている。 この矢野神山には200基近い古墳があり、 江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。 この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、 神社に伝わる由緒には、塚に“金印”が埋められたことまで記されているという。 後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、 祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
実は、八倉比売神社も古墳の上に建てられており、前方後円墳の前部分に社殿が、 そして後ろにあたる円墳部分は奥の院となっている。 この奥の院には、五角形の石積みの祭壇が置かれ、 その上には“つるぎ石”と呼ばれる石が収められた祠がある。 この祭壇は一説によると“卑弥呼の墓”であり、 この阿波一帯こそが邪馬台国であると言われている。 真偽はともかく、この青石で造られた祭壇の異質ぶりは一見の価値があるだろう。
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大麻比古神社(阿波一宮)へ参拝(徳島) |
平成三十年 四月二十九日参拝
大麻比古神社(阿波一宮)へ参拝させて頂きました。 徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13に鎮座しています。 式内社(名神大社)、阿波国一宮。 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
通称として「大麻さん」とも呼ばれ、阿波国・淡路国両国の総鎮守として、 現在は徳島県の総鎮守として信仰を集める。 境内は大麻山県立自然公園に指定されている。
『主祭神 大麻比古大神』 大麻比古大神とはアマテラスを岩戸から出すときに、鏡を見せたり、 ニニギとともに天孫降臨したといわれている天太玉命(フトダマ)のことであります。
『何か新しいものをスタ-トさせるときに、勇気を授けてくれるのと同時に 「やり遂げる」「結果を出す」というパワ-を与えてくれる』と 合田道人著の「神社の謎」に書いてあったと思います。 (手帳に書き出してあったのですが、本で確認できなかったです)
G.W中に日帰りで神社へ参拝させて頂こうと思い、行き先を検討していました。 阿波一宮は大麻比古神社だけとしか思っていなかったのですが、 下調べで3社あることが分かりました。
これは3社を参拝させて頂くご縁を頂いたかなと思いました。 「大麻比古神社」「八倉比売神社」「上一宮大粟神社」の3社を参拝させて頂くことに決めました。
せっかくなので、徳島と淡路島の一宮に参拝させて頂き、レイラインの太陽の道である 「伊勢久留麻神社」も参拝させて頂きたいなと思いました。 (東の伊勢神宮から来た太陽が伊勢久留麻神社に到達し、さらに西の伊弉諾神宮まで行くのです) 御朱印を頂くには近くの松帆神社に参拝させて頂かなければなりません。
後、伊弉諾命・伊弉冉命の国生みの聖地と伝えられる丘にあり、古くから「おのころ島」と親しまれている 「おのころ島神社」も参拝させて頂きたいです。
G.Wですが朝早く出発すれば混雑しないので、朝6時30分出発→8時30分頃「大麻比古神社」に 到着しました。
しかし、阿波一宮を3社巡るとかなり時間が過ぎ、予定通りにはいかず淡路島では2社だけの参拝に なってしまいました。
次回、淡路島だけをたくさん巡りたいと思います。
【大麻比古神社 第一の鳥居】 まだここから鳥居をくぐって車で3分くら走ります。参道の両脇はずら-っと灯篭が並んでいました。 私の愛車(セラちゃん)のアクセラ(白)は左手に停めています
【大麻比古神社 第一の鳥居 社号碑と扁額】 私の車ではありません
【大麻比古神社 第一の鳥居 「あ」の狛犬】
【大麻比古神社 第一の鳥居 「うん」の狛犬】
【大麻比古神社 第二の鳥居】 駐車場にあります。無料で30台ぐらい停めることが出来そうでした。
【大麻比古神社 第二の鳥居にある「あ」の狛犬】 前掛けつけていますね(今まで気にしてみていなかったですが,、初めてみたかもです)
【大麻比古神社 第二の鳥居にある「うん」の狛犬】
【大麻比古神社 手水舎】
【大麻比古神社 御神木全体】 樹齢約千年の楠
【大麻比古神社 御神木左側】
【大麻比古神社 御神木裏側】
【大麻比古神社 鳥居?と拝殿】 徳島と淡路島では、このかたちの鳥居が多いのですかね。新鮮でした。
【大麻比古神社 拝殿傍の「あ」の狛犬】 凄く古そうでした。
【大麻比古神社 拝殿傍の「うん」の狛犬】
【大麻比古神社 心願の鏡池】 大麻比古神社内にあるこのミニチュア石橋は約75年前 当時近くにあったドイツ兵俘虜収容所の兵士達が造った橋として残されています。
【大麻比古神社 ドイツ橋】 第一次世界大戦当時、坂東俘虜収容所で捕虜生活を過ごしたドイツ兵士が、 すぐれた母国の土木技術を生かして大麻比古神社境内の丸山公園に造った橋で、 日独両国民の友情の架け橋として大きな役割を果たしています。
【大麻比古神社 御朱印】
【御祭神】 主祭神 大麻比古神 - 天太玉命(あめのふとだまのみこと)のこととされる 配祀神 猿田彦大神 - 古くから大麻山に祀られており、のちに合祀されたされる 【創建】 (伝)神武天皇年間 【ご由緒】 社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて 阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、 麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより 祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが当社の始まりだと言う。 『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条によれば、 当社は従五位下から従五位上へ神階が陞叙されている。 『日本三代実録』の記事によれば、さらに当社は貞観9年(867年)4月23日の条で正五位上、 元慶2年(878年)4月14日の条で従四位下、 元慶7年(883年)11月1日の条で従四位上に神階を進めている。 延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社へ列格された。 平安時代から鎌倉時代にかけて、神仏習合思想に基づき神社を実質的に運営する 神宮寺が各地で置かれたが、『諸国一の宮』では四国八十八箇所の第一番札所霊山寺が 当社の神宮寺であったと述べている。しかし、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、 別当寺は不詳であるとしている。 『朝野群載 巻6』には、神事に過穢があったことにより阿波国の大麻神が祟り給うたので、 使者を遣わし中祓いを科して祓い清めるべしとの承暦4年(1080年)6月10日付けの 神祇官奏上が記載されている。 室町時代に成立したとされる『大日本国一宮記』には当社が阿波国一宮として記載されているが、 『中世諸国一宮制の基礎的研究』[3]では、南北朝時代に、 伝統的な社格を誇り細川氏の守護所にも近かった当社が、 敵対勢力であった一宮氏が神主を世襲していた一宮神社に代わる 新たな阿波国一宮としての地位を得ることになった、と考察している。 『全国一の宮めぐり』[4]によれば室町時代には細川氏や三好氏、 江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の庇護を受けたとしている。 また、享保4年(1719年)には最高位の正一位の神階が陞叙されている。 明治6年(1873年)に国幣中社へ列格し、明治13年(1880年)に本殿以下が国費を持って造営された。
ドイツ橋 大正8年(1919年)、本殿の裏に石築アーチ橋が竣工した。この橋は第一次世界大戦の捕虜として板東俘虜収容所に収監されていたドイツ兵が帰国の際に彼らの提案と工事により建設されたことから、ドイツ橋と呼ばれている。 Wikipediaより抜粋
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