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eskky28

Author:eskky28
男、46才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
斑鳩寺へ参拝
令和元年 十月十四日 斑鳩寺へ参拝
兵庫県揖保郡太子町鵤709にある寺院です。
天台宗の寺院。新西国三十三箇所第32番札所。



「即位礼正殿の儀」を拝見しておりませんでしたが、「謹んでお祝い申し上げます」。

即位礼正殿の儀が始まり、天皇皇后両陛下がその御姿を御見せになった途端、
雨は止み、日が差し始め、皇居に虹がかかり富士山までが姿を見せるという
本当に奇跡のようなことが起きたそうです。

次の日にネットで知り、鳥肌が立ちました。




ご住職(呼び方が分からないのですが)からご説明を頂いた時に、
推古天皇からこの地一帯の水田を聖徳太子が頂き、法隆寺に寄付をしたとのことです。
そして、その水田を管理する事務所みたいなことから始まり、斑鳩寺に変遷していったとのことだったと思います。
法隆寺を経済的に支えてきたとのことです。

しかし室町時代の戦禍を受けて、寺は燃やされました。復興したときに天台宗にかわったとのことでした。

斑鳩寺の参拝のメインは兵庫県太子町の斑鳩寺『聖徳太子の地球儀』をみることでした。
参拝後に宝物館と聖徳殿(聖徳太子の髪の毛を植えた像)を拝観させて頂く為に、
拝観料を500円を支払い案内して頂きました。写真撮影は不可でした。

まず『聖徳太子の地球儀』をガラス越しに拝観、金色のソフトボ-ルに凹凸があり
地図みたいに見えました。でもどこがどの国かまではわかりませんでした。
後は鎌倉時代の十二神将などを拝観させて頂きました。
十二という数字はユダヤと関わりの深い数字らしいと何かで読みました。

太子十六歳像(聖徳太子の髪の毛を植えた像)は、テレビ、雑誌などには出したことは
ないとのことでした。聖徳太子の父用明天皇がご病気されたときに、回復を願い、
池の水に映った自分の姿をみて製作(等身代とのこと)し、聖徳太子の髪の毛を植えたとのことです。

左手に何々(忘れました)右手にしゃくを持ち神仏融合を表しているとの説明でした。
本物の衣服を着ているので、痛むので60年に一度新しい衣服に交換するとのことでした。
上記にもある戦禍の火災では、太子十六歳像だけは持ち出したとのことでした。

歴史ある尊い秘仏が拝観できて、神妙にドキドキ、ワクワク、と興奮しました。
太子十六歳像は長髪でイケメンでした。ドラマ「東京ラブスト-リ-」の江口洋介さんみたいでした。

【聖徳太子の地球儀】
概要
表面には南北アメリカ大陸や、ユーラシア大陸などがレリーフのように描かれている。また、1800年代に発見された南極大陸に相当する大陸や、ムー大陸に相当する部分にも大陸が描かれている。西暦606年に聖徳太子によって建立されたと伝わる斑鳩寺には、聖徳太子ゆかりとされる宝物が所蔵されており、江戸時代に目録『常什物帳』が作成された。その中の「地中石」と記載されているのがこの地球儀であるといわれ、少なくともその頃から存在していたと考えられている。

科学的な分析
2003年3月に放映された日本テレビの『特命リサーチ200X』で、材質などの科学的な分析が行われた。分析結果により材質は石灰や海藻糊であることがわかった。建材としてよく知られている漆喰の技法で造られた可能性が高い。地球儀の表面には「墨瓦臘泥加(メガラニカ)」という文字が書かれていることも判明した。

想像上の大陸「メガラニカ」
「墨瓦臘泥加(メガラニカ)」とは、南半球に存在すると考えられていた想像上の大陸である。 南半球に巨大な大陸があるという説は、古くは2世紀古代ギリシアのプトレマイオスの地図に見られる。大航海時代にマゼランが、マゼラン海峡を発見した際に、現在のティエラ・デル・フェゴ島を幻の南方大陸の一部として報告したことから、メガラニカ大陸の名称が広まった。メガラニカとはマゼランのスペイン名にちなんで付けられた名称である。一般的には“未知の南方大陸”として知られている(伝説上の大陸)。

世界地図の伝来
日本における世界地図の歴史は、中国で刊行された『坤輿万国全図』(1602年)から始まる。イエズス会の宣教師マテオ・リッチにより伝えられたが、この地図には既に南半球に広がる広大な大陸「メガラニカ」が描かれていた。

地球儀の作製年代
メガラニカの名称が書かれていることから聖徳太子(574-622)の時代ではなく、1602年以降の製作である可能性が高い。『特命リサーチ200X』では、日本で最初の百科事典『和漢三才図会』(1712年)の編纂者、寺島良安が製作したという仮説を紹介している。『和漢三才図会』に掲載されている「山海輿地全図」と聖徳太子の地球儀の地形がほぼ一致するという理由などからである。これらのことから、聖徳太子の地球儀は江戸時代に作製された可能性が高い。

謎のムー大陸
この地球儀には「山海輿地全図」には存在しない大陸がムー大陸に相当する位置に描かれている。ムー大陸の初出は、ジェームズ・チャーチワード の、『失われたムー大陸』(1931年)で、「和漢三才図会」所載「山海輿地全図」より200年ほど後のことである。

原田実は加工の都合で場所と大きさを変えられたフィリピン・インドネシア・ミクロネシアの島々である、としている。
Wikipediaより抜粋

【社号標と仁王門】
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【社号標】
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【仁王門】
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【右手側の仁王像】
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【左手側の仁王像】
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【手水舎】
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【手水舎の吐水口】
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【正面の講堂】
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【講堂の屋根のあの狛犬?】
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【講堂の屋根のうんの狛犬?】
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【講堂の前にありました摩尼車】
一回まわすと般若心経を一巻読んだのと同じ功徳が頂けるそうです
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【聖徳殿】
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【聖徳殿の寄り】
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【聖徳殿の裏側の八角形の奥殿】
大正時代に増築されたそうです。ここに太子十六歳像(聖徳太子の髪の毛を植えた像)が祀ってあります。


【三重の塔】
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【御朱印】
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【本尊】
釈迦如来・薬師如来・如意輪観音(全て重文)
【宗派】
天台宗
【山号】
斑鳩山
【創建】
(伝)推古天皇14年(606年)
【開基】
(伝)聖徳太子
【正式名】
斑鳩山斑鳩寺
【別称】
はんきゅうじ
【札所等】
新西国三十三箇所第32番
西国薬師四十九霊場第23番
播州薬師霊場第18番
聖徳太子霊跡第28番
【文化財】
三重塔、釈迦如来坐像、薬師如来坐像、如意輪観音坐像ほか(国重要文化財)
【御由緒】
伝承によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、
大和国斑鳩宮から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える。

推古天皇14年(606年)に聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、
その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。

長らく数十の坊庵を誇る大寺院であったが、室町時代後期の天文10年(1541年)4月7日
、守護大名である赤松氏・山名氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に龍野城主・赤松政秀とその子赤松広英、
中興の昌仙法師等の発願で徐々に復興していった。
また復興を機に、従来法隆寺支院であったのを天台宗へ改めた。

豊臣秀吉から300石を寄進され、江戸時代には歴代将軍の御朱印地となった。
Wikipediaより抜粋


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大避神社へ参拝
令和元年 十月十四日 大避神社へ参拝
兵庫県赤穂市坂越1297番地に鎮座する神社です。
兵庫県赤穂市坂越(さこし)の宝珠山麓にある神社。旧社格は県社。
瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り」(重要無形民俗文化財)で知られる。


この度の令和元年の台風19号により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

国民の安全に関わる公共工事はどんどん増やして頂きたいものです。
インフラの老朽化も含めて長期計画を立てて頂きたいです。
そうしたら建設関連会社も人材確保、設備投資の計画が立てれると思います。
経済効果も他へ波及していくと思うのですが・・・。



しばらく週末にサッカーが続くので、久しぶりに参拝させて頂こうと思いました。
西の方の天気は良さそうだったので、以前から気になっていた大避神社へ
参拝させて頂きました。
大避神社(ユダヤつながりで参拝させて頂きたかったです)➡斑鳩寺(聖徳太子の地球儀を拝見したかったのです)

ユダヤつながりで、大避の漢字は昔はしんにょうでなく門構えであり、
ダビデを表す漢字だったと本で見た事があった為に気になっていました。


今回は中国自動車道の宝塚ICから山陽自動車道の加古川北ICまで
高速道路(約40分で約1,400円)を使いました。
加古川北ICで降りてからの姫路バイパスは制限速度70キロで片側2車線あり
高速道路みたいで良かったです。

家を8時20分頃に出発した時には、雨が降っていて空もかなり曇っていました。
しかし高速に乗ってからは雨がやみ、だんだん晴れてきました。
少し肌寒かったのですが、厚くなりTシャツになるほど快晴になっていきました。

太子町(もちろん聖徳太子にまつわります。帰りに寄ります。)を越え揖保川も越えて、
大避神社へは10時30分頃に到着しました。
前日がお祭りだったみたいで、片付けで忙しそうでした。


【大避神社近く(徒歩3分ぐらい)にある無料の坂越駐車場】
愛車の向こう側は瀬戸内海になります。
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【秦河勝(聖徳太子の側近)ゆかりの地 坂越の看板  左側】
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【坂越の看板  右側】
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【鳥居と参道】
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【鳥居の扁額】
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【社号標】
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【隋神門前 あの狛犬】
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【隋神門前 うんの狛犬】
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【隋神門】
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【手水舎】
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【拝殿前 あの狛犬】
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【拝殿前 うんの狛犬】
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【拝殿】
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【境内側からみた隋神門と生島】
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【御朱印】
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【主祭神】
大避大神 - 秦河勝を指す
天照皇大神
春日大神

【創建】
大化3年(647年)頃

【社格等】
旧県社

【主な神事】
船渡御祭(10月第2日曜)

【摂末社】
新宮 - 聖徳太子・住吉大神・金比羅大神・海神社
天満神社 - 菅原道真-元の天神山(北之町)に鎮座
恵美須神社 - 蛭子神-元の本町海岸に鎮座
荒神社 - 竈神-元の東之町に鎮座
淡島神社 - 淡島大神-和歌山県の加太より勧請
稲荷神社

【ご由緒】
秦氏は、6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団とされる。
秦河勝は秦氏の族長的人物として聖徳太子の元で活躍した人物である。
のち京都最古の寺とされる広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置したとされる。
広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って広隆寺境内から分散し遷座したものとされ、
当社も大避(大酒)と云われる由縁の一つである。
河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、
千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去、
そして地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建という。
神社正面の海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域となっているため、
現在でも人の立ち入りを禁じている。
神社には、河勝公が自ら彫ったか、聖徳太子から賜ったものとされ、
雅楽で使用された1300年前の蘭陵王の面が宝物として伝えられている。
河勝は猿楽の始祖とされており(『風姿花伝』第四)、観阿弥、世阿弥親子や、
楽家である東儀家などが末裔を称し、金春禅竹の金春流も河勝を初世として伝えている(『明宿集』)。
『播磨国総社縁起』の記述では、養和元年(1182年)に祭神中太神24座に列しており、
当時すでに有力な神社であったとされる。

【坂越の船祭り】
概要
毎年10月の第2日曜日に行われ、江戸時代初期、祭神の秦河勝が坂越に渡来した伝承を
再現する祭りとして始まったと言われる。「山のみか 海も紅葉の 秋まつり」と詠まれているごとく、
荘厳華麗かつ勇壮な神事で、我が国でも他に類をみない伝統的和船の祭礼(船渡御祭)として全国に知られる。
大阪天満宮の天神祭、安芸厳島神社の管絃祭とともに瀬戸内海三大船祭りの1つに数えられる。

進行
祭礼第1日目の宵宮は、河勝の墓とされる生島の古墳の前で墓前祭が行われる。
その後、歌船が御船歌を奏しながら浦々を巡り(磯洗い)、獅子組の青年と子供たちによる獅子舞が町内を巡る。
2日目の本宮(神幸式)は、午前中から獅子舞の里中奉舞が前日より続く中、
海上では櫂伝馬船による漕比べ(花回り)が磯を巡る。
正午過ぎに行われる御分霊御遷祭の後、猿田彦・神楽獅子の先祓いを先頭に
頭人番五町による宮出し行列が神社から浜までを下る。
浜辺で櫂伝馬船の青年たちによる勇壮な橋板バタ掛けが行われた後、御神体が神輿船に乗船し、
一番・二番の櫂伝馬、三番の獅子船、四番から八番までの頭人船、九番の楽船、十番の御神輿船、
十一番の警護船、十二番の歌船からなる和船12隻が船行列を組む。
そして獅子舞や御船歌、雅楽が奏でられる中、御旅所のある生島までを
海上の大名行列のごとく華麗に往復する(海上船渡御)。
御旅所での神事の終わる夕刻、十数基の篝火が浜で一斉に焚かれる中を
高張提灯を灯した船団が再び神社に還幸し、宮入鎮座祭を行ない一連の祭事が終了する。

文化財指定
坂越の船祭りで使用される和船(兵庫県指定有形民俗文化財)は伝統的造船技法により忠実に造られている。
祭礼はそれらの技術工芸と共に、儀礼・儀式での御歌、雅楽、船壇尻船の舞台での演芸や壇尻囃子など
雅やかな伝統芸能の要素が数多く含まれている。
また、船渡御の船団は現在でも二艘の櫂伝馬船の人力のみで曳航、
還幸は篝火と提灯の幻想的な明かりの中行われるなど、古来からの伝承のままを踏襲している。
平成4年(1992年)、文化庁により選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)に選択され、
平成24年(2012年)3月8日に、国の重要無形民俗文化財に指定された。
兵庫県下では7件目、西播磨地域では初の指定であった。 同年11月3日、国の重要無形民俗文化財指定を奉祝し、
船壇尻船の海上公演が64年振りに復活した。

【キリスト教神社説】
大避神社は渡来氏族・秦氏(はたし、はたうじ)に属する秦河勝を祭神としているが、
かつて中国の景教(=ネストリウス派キリスト教)を研究した学者・佐伯好郎は、
秦氏は大部分がペルシャに出自をもつと考えられるキリスト教に改宗したユダヤ人集団だった、
との説を唱えた(佐伯は、秦氏を、使徒時代以後のキリスト教徒であったに違いないが時代関係から景教徒ではありえず、
原始教会のキリスト教徒であったかも知れないと考えていた)。
そして佐伯は、大避神社の「大避」(おおさけ)とは、「避」と「闢 」が類字であることなどから、
本来、旧約聖書に出て来るダビデ王の漢訳「大闢」(ダヴィ、たいびゃく)の事であるとし、
大避神社はダビデ王を祀った神社であるとしていた。
佐伯は、これも秦河勝が創建にかかわった京都・広隆寺にゆかりの大酒神社(大辟神社)にも同様説を取っていた。
ただ、これらの説は、知識人にも興味を持つ人こそあれ、学問的にはほとんど支持されていない。
しかし現在でも、大避神社を語る上で欠かせない話題の一つであり、知る人ぞ知る話となっている。
なお当社には、キリスト教で重要視される「12」の数字にまつわる事象が多くある。
神社拝殿の天井絵(12×8枚)、拝殿へ向う階段、境内のヤスライ井戸の石柱、船渡御の祭礼船、
櫂伝馬船の漕ぎ手、神社を守る社家の数は全て12である。
また、祭りの日程(旧暦の9月12日)や、神社への初穂料(昔は12銅、現在は12の倍数)も12にまつわっている。
但し、日本が古来受け入れた文化にも、一年12か月や十二支、仏教の十二神将、或は十二天、
など12の数は少なからず出て来る事には注意しなければならない。
「12の数のミステリー」大避神社と江戸風情残る兵庫・坂越の街並みを歩く
Wikipediaより抜粋

いつもご訪問して頂きありがとうございました。
次回、斑鳩寺の参拝記録を書きます。
聖徳太子の地球儀、聖徳太子の髪の毛を植えた仏像も拝見させて
頂いた様子を書きたいと思います。


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龍田神社に参拝
令和元年 九月十五日 龍田神社へ参拝
奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6に鎮座する神社です。


本日(10/05)は久しぶりに近くの六甲山の中腹の風吹岩まで
ハイキングに行ってきました。すぐの岩場の登りが今までで一番きつかったです。
たぶん原因は、阪急電車の神崎川、園田間で人身事故があり二駅手前の西宮北口という駅で
電車が止まりました。目途が立たないとのことで降りて歩いて行くことにしました。
隣の夙川駅に着く前に電車が開通したので、約1時間かけて隣駅からまた乗りました。

これがきつかったですね。隣駅まで遠すぎでしたね。

【いつもの保久良神社に参拝】
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【参道からみた瀬戸内海】
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【下ったところの駅前でお茶】
コーヒーフロート飲みました。甘くて癒されました。
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前回の廣瀬大社の後に、スマホのナビに龍田神社と入力して到着しました。
本当は龍田大社に参拝させて頂く予定でしたが、何かのご縁です。

駐車場がなく地図で探すと離れたところに無料駐車場があったので、
そちらに停めさせて頂きました。徒歩10分ぐらいの龍田公園無料駐車場でした。
暑かったので、汗だくになりました。

【猫坂という交差点名の看板】
変わってますね、猫が多いのかな?
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【鳥居と社号標】
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【手水舎】
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【あの狛犬】
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【うんの狛犬】
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【拝殿】
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【楠大明神と御神木】
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【末社?】
奥  白龍大神、市杵島姫命
右  廣田神社 粟島神社 祇園神社
左  事代主神(恵美須)
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【御朱印】
お孫さんが作られた栞(折り紙)を付けて下さっていました。
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【主祭神】
本殿   天御柱大神
      国御柱大神
右社殿   龍田比古大神
        龍田比女大神
左社殿   天児屋根大神
        外三大神

【創建】
分かりませんでした。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳以前になりますかね。

【社格等】
式内社(小)
旧県社

【ご由緒】
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は2座。
同帳では「龍田比古龍田比女神社二座」と記載され、
元々の祭神は龍田比古神・龍田比女神の2柱であることが知られる。
これに関して、龍田大社から天御柱命・国御柱命の2神が勧請され、
元々の祭神は忘れられたとする説等がある。
『大和志』では、龍田大社(三郷町立野)の本宮に対して当社を「龍田新宮」とする。
社伝では、聖徳太子が法隆寺の寺地を探し求めていた際、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、
「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。
私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、
鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では
大和国平群郡に「龍田比古龍田比女神社二社(二座)」と記載され、式内社に列している。
明治維新後、神仏分離によって法隆寺から分離し、境内にあった寺院関連建物は全て破却された。
明治4年(1871年)には三郷町立野の龍田神社(現在の龍田大社)の摂社となった。
大正11年(1922年)3月に龍田大社から独立し、近代社格制度において県社に列している。
Wikipediaより抜粋

いつもご訪問して頂きありがとうございました。


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廣瀬大社に参拝
令和元年 九月十五日 廣瀬大社へ参拝
奈良県北葛城郡河合町大字川合99に鎮座する神社です。

式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「廣瀬神社(ひろせじんじゃ、広瀬神社)」。


2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮したひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。

テレビのニュスで見た事がありました。

昨日、参拝させて頂きました。良い天気で暑かったです。
地道で家から約90分で到着しました。
20台ぐらい停めれそうな無料駐車場がありました。

対となる龍田大社も参拝させて頂こうとしていたのですが、
私の早とちりで龍田神社とナビで検索しており、家に帰ってから御朱印をじっくり
拝見していると違うことに気が付きました。
まあこれも何かのご縁ですかね。

いつか龍田大社にも参拝させて頂きたいです。


【第一鳥居と社号標】
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【御由緒看板】
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【第一の参道アスファルト】
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【御祭神看板】
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【あの狛犬】
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【うんの狛犬】
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【第二の参道 砂利】内宮みたいに木洩れ日がキレイでした。
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【祓戸社】心身の穢れを祓い清めた後に廣瀬大社を拝します。
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【手水舎】
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【手水舎の龍】
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【第二の鳥居】
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【拝殿】
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【寄った拝殿】
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【神馬舎】
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【たちばなの木】
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【日露戦争の戦利品のロシアの大砲】
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【祖霊社】
廣瀬大社に関係する祖霊と大国主命が祀られていました
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【日の丸大明神】すごい木ですね。稲荷社です。
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【日吉社】
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【御朱印】
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【主祭神】
若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)」とも。社伝では伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、
伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神とする。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。

【脇殿神】
櫛玉命(くしたまのみこと)
社伝では饒速日命を指す。社家の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、
社家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社の饒速日命社がある。

穂雷命(ほのいかづちのみこと)

【創建】
(伝)第10代崇神天皇9年
(前89年)

【社格等】
式内社(名神大)
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社

【ご由緒】
鎮座地は、高田川と一緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが
合流する地点であり、このことから水神を祭る。
社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長の廣瀬臣藤時に託宣があり、
水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化しタチバナが数多く生えたことが天皇に伝わり、
その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに始まるとしている。
龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、
大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国広瀬郡に
「広瀬坐和加宇加乃売命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、
名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。
永保元年(1081年)に最高位の正一位の神階を受けている。後の二十二社の一つともなった。
明治4年、官幣大社に列格した。第二次大戦以降、廣瀬大社と称するようになった。
Wikipediaより抜粋

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日前宮(にちぜんぐう)へ参拝
日前宮(にちぜんぐう) へ参拝 令和元年 八月十三日

和歌山県和歌山市秋月365に鎮座している。

日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)は、和歌山県和歌山市にある神社。
1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる。
両社とも式内社(名神大)、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁に属さない単立神社。

神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。
八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、
日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。
日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。
また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、
伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。

日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。
神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。
なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。



またまた久しぶりに神社に参拝させて頂きました。


家から車で約90分で到着しました。12時15分頃出発しました。
盆休み中でしたが、行きも帰りも渋滞が一切なく走れました。
気持ち良かったです。

駐車場は参拝者は無料でした。
境内は写真撮影禁止だったので少な目です。
参拝中に蚊にたかられると思ったのですが、一度もたかられずでした。
気温のせい?ですかね、良かったです。

【鳥居と愛車アクセラの半ケツ】
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【社号標】
二社書かれていて珍しいですね。
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【鳥居】
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【手水舎】
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【御由緒看板】
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【灯篭の奥に拝殿と本殿があります】
入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。
どちらから参拝させて頂こうか迷ったのですが、数組の参拝者たちが左の日前神宮から参拝していたので
私も同様に参拝致しました。記事を書いてて気が付いたのですが、狛犬がなかったです。珍しいですね。
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【駐車場でお待ちの愛車】
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【御朱印】
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【主祭神】
日前神宮
主祭神
日前大神 (ひのくまのおおかみ)
日像鏡(ひがたのかがみ)を神体とする。
相殿神
思兼命(おもいかねのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)


國懸神宮
主祭神
國懸大神 (くにかかすのおおかみ)
日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体とする。
相殿神
玉祖命(たまのやのみこと)
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
鈿女命(うづめのみこと)

【御神体】
日前神宮:日像鏡
國懸神宮:日矛鏡

日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)とは、石凝姥命が八咫鏡(三種の神器の一つ)に先立って造った鏡とされ、
現在は日前神宮・國懸神宮(和歌山市)の御神体と伝わる。

【創建】
(伝)神武天皇2年

【社格等】
式内社(名神大)
紀伊国一宮
旧官幣大社

【摂社】
天道根神社 - 祭神:天道根命
天孫降臨の時、天道根命は二種の神鏡とともに従臣として仕え、神武天皇二年春二月、
紀伊國を賜り初代國造職に任命されました。
紀氏は天道根命の末裔にあたり、歴代に渉り國造職を受け継ぎ
明治十年三月二十一日には官命を以て日前國懸両神宮の摂社として定められました。

中言社 - 祭神:名草姫命、名草彦命
日本書紀では、神武東征のとき、河内国で長髄彦に追い返され、
神武一行は次に和歌山に上陸し、その地の名草という女賊を誅したと書かれている。
一方和歌山の口承では、「名草は負けなかった。神武軍を追い払った。」とされている。
と何かのブログでみました。

【末社】
深草神社 - 祭神:野槌神
邦安神社 - 祭神:松平頼雄命
市戎神社 - 祭神:蛭子神
松尾神社 - 祭神:大山咋神、中津島姫命(市杵島姫命)
以上、Wikipediaより抜粋

【ご由緒】
創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。
日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し
國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。
神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、
思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、
天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、
天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。
その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、
日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。
天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、
紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、
二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、
垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、
永きに渉り鎮座の地として今に至っております。
爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、
両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、
延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、
新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。
また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、
親しみをもって呼ばれています。
戦国時代におきましては、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、
社領没収の憂き目に逢いましたが、徳川の時代に入り紀州藩初代藩主、
徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入国されるや社殿を再興され、明治四年太政官布告による神格の制が治定されると、
官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列し、敬神崇祖の大義を示すことと相成りました。
大正八年の国費による境内建物すべての改善工事によって旧観は一新され、
大正十五年三月の完成をもって現在の姿となっております。
ホームページより抜粋

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