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eskky28

Author:eskky28
男、45才、A型
趣味はドライブ、サッカ-、読書(歴史)
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記です。(毎日更新ではないですが)

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日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
日本のルーツ探究、古事記、日本書紀、神話、神社、ユダヤ人のつながりを御朱印を頂きながら巡っていく日記
続々日本のル-ツ?のお話(あくまで一説)
前日6月18日大阪北部の震度6ほどの地震に通勤時の車の中で遭いました。
道路が歪んでみえました。
最初、車のタイヤが外れたのかと思いました。(そんな経験はないのですが)

家では家族皆ケガもなかったです。
子供たちは休校になったみたいです。

北南方向の食器棚、茶碗4ケが落ちて割れました。
本棚も倒れていました。

テレビは東西方向なのと、嫁さんが抑えてくれていたらしく
無事でした。

今記事を書いているときも何回も揺れています。
少し気持ち悪くなってきました。


熊本地震も震度6の翌日が本震だったり、東日本大地震も震度6の二日後が
本震だったりしたそうなので油断できないですね。

なにもできないでしょうが、いつでも逃げれるように心の準備は
しときたいです。
小さい地震でもすごくドキドキしてしまいます。怖いですね。



前回の続きを少しだけ。
『飛騨の口碑』が書かれたの『日本のル-ツ飛騨』からの最後の紹介です。


【伊勢神宮はなぜ伊勢にあるのか】

大和朝廷は奈良に栄えましたが、「十代崇神天皇五年には流行病で多くの民が死に、
六年には百姓(おうみたから)達が流離(さすら)ひ、或いは背版(そむ)く者ありて、
徳をもって治め難しとご心配遊ばして、天照大神を御殿の内に祀るのは畏れおおくて安からずと、
天照大神を豊鍬入姫に託(あずけ)まつりて、倭の笠縫邑(かさぬいむら)に移し祀り給う」
と『古事記』にあります。


『日本書記』には「十一代垂仁天皇、天照大神を倭姫命に託(あずけ)たまふ」と出ています。
その頃奈良は出雲神道に席捲されていて天照大神は忘れられていたのです。
倭姫命はあちこちと天照大神を祀る地を探して廻り、近江や美濃を廻りて、
伊勢に至り、ここには飛騨王朝末期に下山して住みついた人々が多く
天照大神を賛仰(さんこう)する人が大勢いたから、この地に神宮が定まったのです。


今回はここまでにしておきます。
次回2冊目の『暴かれた古代史』
の紹介をしたいと思います。
(私の怖いと思い今でもモヤモヤが残っているお話です)

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続 日本のル-ツ?のお話(あくまで一説)
前回の続きです。
『飛騨の口碑』が書かれたの『日本のル-ツ飛騨』からの紹介です。

【神武天皇の東征】

出雲からタギリヒメが逃げ帰って出雲と飛騨の関係が危なくなった頃、
筑紫(九州)では外国の人たちが大勢上がって来ていて、三つのグル-プで
争い逃げ帰って、元から住んでいる人たちから物を奪ったり、殺したり
して悪さをしていました。


このまま月日がたてば勝ち残った集団が子孫をドンドンふやして、東へ攻めて
こられてからは手遅れになるので、ヒルメムチ(天照大神)の孫のニニギノミコトを総大将にして
飛騨から降りてゆき、鈴鹿からサルタヒコノミコトが船を用意して筑紫平定に向かう
ことにしたのです。


これがいわゆる『天孫降臨』のことです。


その少し前、飛騨では寒波が訪れていて、飛騨中大雪が降るようになっていました。
その上外国人が日本に入ってきて悪さをするようになっていたので、飛騨では
山奥すぎるということで都を大和に移すことに決まりました。


飛騨中の人々が高山の安河原に集まり、やまのふもと(大和)に都を移すことを決め、
出来るだけ多くの飛騨の男女が筑紫平定に行き、平定後飛騨に帰らず、すでに準備を
進めている大和に入って都を開くことが決定されたのです。


ヒルメムチノミコト(天照大神)の息子や孫が近畿へ降りて開拓していきます。
日本の古代は末子相続制だったので、直系の末子以外の人々は、
大和に都が開けるよう近畿一帯を開拓するために、
ニニギノミコトが筑紫へ降臨されるより
一足早く山の麓(飛騨からみて)に降りられたのです。


ヒルメムチノミコト(天照大神)の息子のアマツヒコネノミコトは一族を
引き連れて滋賀県の彦根に降り開拓され、祖父母のイザナギノミコト、
イザナミノミコトを祀り、のちに多賀大社となって発展し彦根という
地名になりました。


アマツヒコネノミコトはさらにそこを身内に任せて、三重県の多度も開拓し
そこで崩ぜられました。そこが多度大社になったのでしょう。


アマツヒコネノミコトの子のオオコウチノミコトやその子孫は、各地を開拓され、
いたるところに河内、大河内の地名をとどめています。


オオコウチノミコトの兄弟は多数おり、ヌカダノミコトは河内の大和へ、
イバラキノミコトは大阪の茨木へ、タナカノアタエノミコトは大和の田中郷へ、
ヤマシロノミコトは京都の山城へ、ウマクダノミコトは上総国の望陀郡へ、
ミチノシキヘノミコトは磐城国の楢葉町へ、スオウノミコトは周防へ、
アムチノミコトは大和の山辺郡庵知へ、タケイチノミコトは高市県(たけいちのあがた)へ、
ガモウイナキノミコトは近江の蒲生郡へ、サキクサベノミコトは三枝へと
父のアマツヒコネノミコトの命令によりそれぞれの地に赴き土地を開拓されたのです。


もう少し前に鈴鹿の椿大神社も飛騨の命を受けヤマモトタカヤマツチノキミミコトが
飛騨から降りて鈴鹿を開拓しました。
神社の宮司は代々山本家です。



筑紫が平定されればスメラミコト(皇統命)が大和に入って都を開くことが決まっており、
すべての分家の人々は総本家に従って団結していく道徳が定まっていたのです。


ニニギノミコトの兄のニギハヤヒノミコトは、ニニギノミコトが筑紫へ降りられるに
先だって、河内の川上のいかるがのたけの麓に行かれました。


降りられるときにヒルメムチノミコト(天照大神)からニニギノミコトと全く同じ
天羽羽矢(アマノハバヤ)とアマノカチユキなどの十種の神器を授けられた
のです。

これは万一筑紫平定が長くなって子や孫の代になっても、互いにこの神器を
示しあうことで先祖が兄弟であることの証拠品だったのです。


実際ニニギノミコトの孫のサヌノミコト(神武天皇)だったので、大和に来られて
この十種の神器を示しあうことで合戦が中止されたのですから。


筑紫は広く、志半ばでニニギノミコトは亡くなり、息子のウガヤフキアエズノミコトが
後を継ぎほぼ平定し、その息子のサヌノミコト(神武天皇)に飛騨との約束を
果たす為、大和へ帰り都を開きなさい、急いで分家の待つ大和へ向かいなさいと
命じました。


『日本書記』には神武天皇の兄イツセノミコトを殺したナガスネヒコを切ったと記されて
いますが、『古事記』では触れていません。
「飛騨の口碑」ではナガスネヒコはニギハヤヒノミコトの妻の兄に当たるので、
表向きは切ったことにして東北へ逃がしたと伝えています。


『日本書記』と「飛騨の口碑」のどちらが正しいか調査したところ、
ナガスネヒコは家来やその家族を連れて青森の十三湖に入りアラハバキ王国を
建てたと地元の口碑に残っていました。



サヌニミコトは都を開き、この朗報は直ちに飛騨に伝えられました。
すでに亡くなって位山の先祖と共に葬られておられるヒルメムチ(天照大神)の墓前
に報告され、位山の一位の木で作られた位板がサヌノミコト(神武天皇)に授けられました。
(これ以後天皇の即位式には位山の位板が下がり後に笏木と変わりましたが、今なお
この伝統は続いています)



こうして神武天皇が大和の橿原で即位されたのです。


大和に都が開かれると、飛騨の若い男女が大勢大和へ行き、
神武天皇を守り、助けました。

飛騨から行った人々が住んだところが橿原神宮の隣に飛騨町、上飛騨町
として残っています。

鈴鹿の山本一族がやはり橿原を守り山本町が今も橿原神宮の隣にあります。


長くなったので続きはまたにします。
話はキレイにつながっていると思います。
怖い話はもう少し先になりそうです。

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日本のル-ツ?のお話(あくまで一説)
今日は(六月十日です)は前日に、またまたボルダリング(3回目)を
してきて、かなり疲労が溜まっており、まったり(ぐったり?)しています。
昨日は家の中でいつでもどこでも寝落ちしてしまいました。


「疲労感、ハンパない」って言いたくなります。


三日くらいは疲労と筋肉痛はあるのですが、
そのあとは四十肩の右肩も少し楽になる気がします。
気のせいかも知れませんが・・・。

女性の方も五人くらい来ていて、
私には到底出来ないところをバリバリやっておりました。
一昨日なんかは七十歳の方もボルダリングを初めてやりに来ていたそうです。

頭と体の体操に、心と身体の健康に非常に良いと思います。
(自分の手と足だけで考えながら登っていきます)


本当は昨日(六月九日)は神社へ参拝させて頂こうと思っていたのですが、
前日の大雨や昨日の天気予報と高速道路の工事で夜間通行止め
(遠くのときはいつも4時ころ出発している)もあり、
ボルダリングに急遽変更しました。
行き先は白山姫神社(約4時間)か戸隠神社(約5時間30分)か
飛騨高山の水瀬神社(約4時間)を考えていました。



今回は『日本のル-ツ?のお話(あくまで一説)』を書きます。
たまにしかない土日の連休でサッカ-もなく、
遠くまで参拝できるいい機会だったのですが、
参拝のかわりに私が衝撃を受けた話を紹介致します。


「高天原はどこなのか」はいろんな説があると思いますが、
今のところ私の知識?知見?
(かなり狭い範囲ですが)の中では、つじつまが合い有力な説に思っています。


しかし本当なら、すごく怖く、悲しく、心の中がモヤモヤしてスッキリしません。
いまだに信じる、信じないの葛藤がすごくあります。
しかし、今のところ一番有力かなと思っています。


以下、お話をご紹介したいと思います。


ブログを始める前から神武天皇より以前のお話にも興味があり、
ネットでウエツフミのことについて書かれている記事を見ていました。

その中で『飛騨の口碑』が出てきたので、調べていると
日本のル-ツ(神武天皇以前)が書かれていて、あっという間に引き込まれました。

本も出版されているということで、『日本のル-ツ飛騨』、『暴かれた古代史』の
2冊を購入しました。


超簡単に説明します。

『日本のル-ツ飛騨』

【日本起源の飛騨】
神武天皇以前のお話。
日本列島は約5億年前に 海の中から隆起したのが飛騨である。
イザナギノミコトとイザナミノミコト(出雲から嫁ぐ)、その子供がヒルメムチノミコト(後に天照大神という)、スサノオノミコト。
天照大神とオモイカネノミコトは夫婦であり、その子供たちが五柱の男神、三柱の女神の八人である。

ヒルメムチノミコトの子と出雲に行ったスサノオノミコトの子の婚約で、
飛騨と出雲がいつまでも仲良くできると皆が願い、誓ったのです。

『古事記』では「姉弟の子生みの誓い」と書いてあるので、天照大神とスサノオノミコトが誓約をして生まれたと
誤解する人がいるとのことです。

【スサノオとヤマタノオロチ】
スサノオノミコトが母イザナミノミコトの生まれ故郷に行ったときにシベリアのオロチ族が
出雲に上がり砂鉄で剣を作り、女を求めて騒動を起こしていました。

スサノオノミコトは酒をたくさん飲ませて、寝込んだところを斬ったのです。
これが『古事記』に出てくる「八岐の大蛇退治」のことです。

【出雲の国譲りの真相】
オオクニヌシノミコトは「国譲り」をしたのではなく統治権を剥奪されたのです。

ヒルメムチノミコトの長女タギリヒメがスサノオノミコトの後継者であるオオクニヌシノミコトと
結婚しました。

アジスキノミコト(加茂命)とシタテルヒメ(下照姫)の二人の子供ができた後、
家に帰ってこなくなりました。
政略のためと称しあちこちの豪族の娘に子供を産ませていました。

しまいには正妻のタギリヒメをさしおき、スセリヒメを正妻にすると言い出しました。

『古事記』にはスセリヒメと恋愛をして、父のスサノオノミコトに許可をもらいに訪問すると
猛烈に怒るのですが、何故怒るのか理由が書いていないのです。

「それでは飛騨との約束を破ることになるから」と反対して厳しく叱ったのです。

タギリヒメの子であり、飛騨のヒルメムチの孫であるアジスキノミコト(加茂命)が
将来出雲の政権を担うという、飛騨との約束が破られたのでした。
(側室の子の事代主を後継者にしたのです)

【若彦の反逆と誅殺】
オオクニヌシノミコトの裏切りが決定的になり、ヒルメムチの子でタギリヒメの兄の
ホヒノミコトをオオクニヌシノミコトに会うために出雲に派遣しました。

ところがホヒノミコトは3年たっても帰ってきません(実はオオクニヌシノミコトは
あちこちの女を渡り歩き、たまに帰ってきても会うことを避けていたのです)

今度は国玉命の子、若彦を出雲に派遣することになるのです。
ところが若彦も8年たっても帰ってこないのです。

今度は高木命の娘のキジナナキメを出雲に派遣して、
出雲のこと、ホヒノミコト、若彦の様子をこっそり調べさせたのです。

ところがキジナナキメは何者かに射殺されてしまいます。
キジナナキメを殺した矢を、同行者が持ち帰りました。

なんとその矢は高木命が若彦に餞別で与えた矢だったのです。
すぐさま飛騨から密使が送られ射殺されました。

【若彦の葬式】
若彦は飛騨からの重大な命令を受けて出雲に行ったにもかかわらず、
同じ命令で先に行ったホヒノミコトにそのことを話すこともなく月日は流れました。

そしてタギリヒメが出雲に残したシタテルヒメとそしらぬ顔で
結婚して幸せそうに暮らしていたのです。

そして突然何者かに殺されてしまったのです。

シタテルヒメと兄のアジスキノミコト(加茂命)と共に、母タギリヒメ、祖母ヒルメムチノミコト(天照大神)、
若彦の父母兄弟のいる飛騨へ遺品をもって向かいました。

飛騨の入口である美濃で、若彦の妹が嫁いでいる親戚の家へ立ち寄りました。
そこで「若彦は飛騨の使命を果たさず、さらに飛騨の使者キジナナキメを殺した為に征伐された」と
死の真相を聞かされました。

シタテルヒメと兄のアジスキノミコト(加茂命)は、自分達も若彦に騙されていたことを知り驚きました。

知らなかったとはいえ反逆者の妻や兄では飛騨へ入ることもできず、やむえず若彦の父母にのみ
こっそり知らせて、美濃で喪屋をつくり葬式の準備をしました。


葬式で若彦の本妻とシタテルヒメが出会いました。
若彦は飛騨で結婚もして子供もいたのでした。

本妻は夫若彦の死とシタテルヒメを妻にしていたことを悲しみ、
シタテルヒメは若彦に本妻や子供がいたことを知って夫の裏切りを悲しみ、
アジスキノミコト(加茂命)は、妹が騙されていた事を残念がって泣き、
若彦の父母は、恥さらしの我が子の死を恥じて泣きました。

その葬式をした場所が喪山として現在も美濃に残っています。


『古事記』には、若彦の本妻がアジスキノミコト(加茂命)の顔が若彦にそっくりであったので
「生きていたの」と抱き着いたら、アジスキノミコト(加茂命)が「死人に間違えられたのはもっての
ほかだ」と怒って喪屋の縄を切り、蹴り倒したので皆が泣き叫び、高天原に泣き声が届いたと
書かれています。


私が勝手に思うには、死人に間違われたから暴れたのではなく、
こんなに皆を騙して裏切ったことを葬式をするときに知ったから、
喪屋を蹴り倒したりして暴れたりしたのだと思います。

気持ちを抑えつけるのは難しいと思います。


『古事記』にいう高天原は飛騨とは書かれていませんが、飛騨への入口である美濃での
葬式の様子は飛騨には筒抜けだったのです。


え-と、長くなりましたので続きは次回にしたいと思います。
残りの内容ですが
【神武天皇の東征】

【伊勢神宮はなぜ伊勢にあるのか】


2冊目の『暴かれた古代史』
「オオクニヌシの出雲の話」と「なぜ伊勢神宮に八咫鏡(天照大神)が祀られているのか」が
書かれています。


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日本発祥 - 国生みの聖地 おのころ島神社(兵庫県淡路島)へ参拝
平成三十年 四月二十九日に参拝

おのころ島神社へ参拝させて頂きました。
兵庫県南あわじ市榎列(えなみ)下幡多415に鎮座しています。
神社前の道路を渡ったところに、40台ぐらい停めれそうな無料駐車場がありました。


前回の記事の阿波国一宮の3社を参拝した後、徳島ラ-メンを食べてから
淡路島を目指しました。

淡路島で6社参拝したかったのですが、流石にG.Wですから渋滞が出てきて
中華そば「西食」からおのころ島神社へは、
道がすいていると約45分ぐらいかかるところ、約75分かかりました。
自凝島神社(おのころじまじんじゃ)に着いたのが15時頃でした。

参拝は2社に絞り込みました。太陽の道、レイライン、西のお伊勢様の
淡路三宮「伊勢久留麻神社」など次回参拝させて頂きます。

自凝島神社(おのころじまじんじゃ)でも時間がなく
神社から少し離れたところにある『天の浮橋』にも
次回参拝させて頂きたいです。


【自凝島神社(おのころじまじんじゃ)】
伊弉諾命(イザナギのミコト)・伊弉冉命(イザナミのミコト)を主祭神として
菊理媛命(キクリヒメのミコト)を合祀する。
当社が鎮座する丘が両神による国産み・神産みの舞台となった自凝島であると伝えている。
このことから縁結びや安産などの御利益があるといわれる。
高さ21.7メートルの大きな鳥居がランドマークとなっている。
この鳥居は平安神宮及び厳島神社と並び「日本三大鳥居」の一つに数えられる。

難読であるため境内の石標・案内板や周辺道路の道路標識、道路地図などでは、
もっぱらおのころ島神社という表記が用いられている。
なお磤馭盧島神社という表記もあるが、これはほとんど使われていない。
Wikipediaより抜粋


【国生み神話】
古事記、日本書紀によると、伊弉諾尊(いざなぎ)・伊弉冊尊(いざなみ)の二神が「天の浮橋」に立って、
「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって海原をかきまわし、その矛を引き上げたときに、
矛の先から滴り落ちる潮(しお)が凝(こ)り固まって一つの島となった。
これが「おのころ島」で、二神は、その島に降りて、夫婦の契りを結んで国生みをされた。
はじめに造られたのが淡路島でつぎつぎと大八洲(おおやしま)の国々(日本列島)をつくられたとあります。
 
【おのころ島は葦原国(あしはらのくに)】
おのころ島は、旧三原町のおのころ島、旧南淡町の沼島、淡路町の絵島、
淡路島全体がおのころ島であるなど、いろいろな説があります。

おのころ島は、現在、陸地にありますが、おのころ島の産宮神社(お砂所)があり、
自凝島神社の塩砂は、大八洲の国生みの故事である「天の沼矛」から滴り落ちた塩なのです。
縄文時代には、水辺に群生する葦が最近まで島の北部一帯に広がっていたことからも、
むかしは、海の中に浮かぶ小島であったと考えられています。

【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 大鳥居】
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【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 手水舎】
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【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 参道】
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【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 正殿】
正殿は、大鳥居をくぐり石階段を登った正面にあります。
おのころ島神社の正殿は伊勢神宮と同じ神明造となっており、
また伊勢神宮の内宮の鰹木は十本、外宮は九本あり、おのころ島神社は、八本となっております。
正殿では結婚式や七五三・お宮参りなどの各御祈祷が行われます。

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【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 鶺鴒石(せきれいいし)】
伊弉諾命・伊弉册命の二神様は、正殿前にあるこの石の上につがいの鶺鴒が止まり
夫婦の契りを交わしている姿を見て、夫婦の道を開かれ御子様をお生みになられました。

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『新しい出会いを授かりたい場合』
 白 → 赤
の順に縄を握り、思いを込めてお祈り下さい。

『今の絆をより深めたい場合(お1人で来られた際)』
赤 → 白
の順に縄を握り、思いを込めてお祈り下さい。

『今の絆をより深めたい場合(お2人で来られた際)』
赤(男性) → 白(女性)
の縄を握り、手を繋いで、思いを込めてお祈り下さい。


【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 正殿裏にある八百萬神社】
正殿の西側御奥に八百萬神社があります。
伊弉諾命・伊弉册命の御子神様を奉斎しております。
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【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 八百萬神社ご由緒】
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【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 離れて横から】
島にも見えるし、古墳にも見えました。
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【自凝島神社(おのころじまじんじゃ) 御朱印】
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【御祭神】
伊弉諾命
伊弉冉命
【創建】
不詳
【ご由緒】
当神社は、古代の御原入江の中にあって伊弉諾命・伊弉冉命の国生みの聖地と伝えられる丘にあり
古くから「おのころ島」と親しまれ崇敬されてきました。
古事記・日本書紀によれば神代の昔国土創世の時、二神は天の浮橋にお立ちになり、
天の沼矛を持って海原をかき回すに、その矛より滴る潮がおのずと凝り固まって島となる、
これが自凝島である。
二神はこの島に降り立たれ、八尋殿(やひろでん)を建て
先ず淡路島を造り次々と大八洲(おおやしま)を拓かれたと記されています。
当神社には伊弉諾命・伊弉冉命の二神がお祀りされており、縁結び、安産の神として知られています。
また、この二神は天照大御神様の親神様です。
【ご神徳】
健康長寿
良縁堅固
夫婦和合
安産の塩砂

【その他】
2006年3月3日に辺見えみりが自身のブログの中で、木村祐一との交際が始まる以前に当社を参拝し、
縁結びのお守りを購入していたことを明かした。
これが影響し、それまで1日に2、3人程度であった参拝客が10倍以上増加したという(女性セブン)。
なお、辺見えみりは2006年12月17日にも当社を訪れているとのことである(おのころ島神社)。

おのころ島神社ホ-ムペ-ジより抜粋


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上一宮大粟神社(阿波国一宮)へ参拝(徳島)
平成三十年 四月二十九日参拝

上一宮大粟神社(阿波国一宮)へ参拝させて頂きました。
徳島県名西郡神山町神領字西上角330に鎮座しています。
式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ。
旧社格は郷社。新四国曼荼羅霊場第七十三番札所。

八倉比売神社から車で約30分ぐらいでした。

徳島県に入るとお遍路されている方をちょこちょこ見かけました。

無料駐車場が10台ぐらい停めることが出来ました。

少し急な不揃いの苔の生えた石段(古そうでした)を上り、境内に行きます。
すると正面に光と共に古そうな拝殿が現れました。

ここがやっぱり阿波国一宮かなと思うほどいい雰囲気でした。
3社とも思いましたが・・・。

社務所が見つからず、他府県ナンバ-の参拝者の方たちしか
見かけられず、御朱印は断念しました。


【上一宮大粟神社  第一の鳥居】
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【上一宮大粟神社  第一の鳥居  扁額】
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【上一宮大粟神社  五角形の石碑】
他の写真は載せていませんが、阿波一宮の3社ともに五角形の石碑がありました。
いずれも天照大神、大己貴命と彫られています。他3面はなんて彫られているかは忘れました。
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【上一宮大粟神社  第二の鳥居と神門】
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【上一宮大粟神社  第二の鳥居  扁額】
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【上一宮大粟神社  第二の鳥居そばの「あ」の狛犬】
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【上一宮大粟神社  第二の鳥居そばの「うん」の狛犬】
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【上一宮大粟神社  第二の鳥居と神門の奥の参道】
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【上一宮大粟神社  参道奥の石段】
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【上一宮大粟神社  石段から見えた拝殿】
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【上一宮大粟神社  手水舎】
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【上一宮大粟神社  拝殿】
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【上一宮大粟神社  拝殿】
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【上一宮大粟神社  拝殿  扁額】
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【上一宮大粟神社  拝殿  天井】
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【上一宮大粟神社  本殿】
拝殿奥の赤い建物。
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【徳島ラ-メン  西食】
ネットで探しました。ラーメンの写真を見て決めました。
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【徳島ラ-メン  西食の中華そば】
とんこつ醤油だったと思います。めっちゃ美味しかったです。
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【御祭神】
大宜都比売命 (おおげつひめのみこと) - またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)
あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としているが、
史料によっては天石門別八倉比売命・大粟比売命は配祀神であるとしている
【創建】
不詳
【ご由緒】
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から
馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。

『延喜式神名帳』に記載される名神大社「阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社」の
論社の一つである。天石門別八倉比賣神社は神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願所となり、
元暦2年(1185年)には正一位の神階を授けられた。
平安時代には、現在の徳島市一宮町に当社の分祠として一宮神社が創建された。
明治3年(1870年)、社名を「埴生女屋神社」と改められたが、氏子の請願により、
明治28年(1895年)に現在の上一宮大粟神社となった。
Wikipediaより抜粋


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